連載
  スギダラな一生/第58笑 「岡村 孝」
文/ 若杉浩一
   
 
 
  岡村 孝氏、長野県出身、日本を代表する家具デザイナー。
北欧の本物のデザインに憧れ、ハンスウェグナーに憧れ、若くして単身コペンハーゲンに移住。
苦労して、今や北欧デザインでも、名だたるデザイナーの一人で、沢山の名品を送り出している。日本でも沢山仕事をしている。内田洋行にも美しい彼の製品が現存している。デザインは繊細で、おおらかだが、ご本人の見た目は、やくざ映画に出てきそうなキャラである。(岡村さんに、怒られるか?)
   
  そんな、岡村さんに出会ったのは、かれこれ、20数年前。ちょうど、会社から干されて始めていた時期に、師匠 鈴木さんから紹介された。いや、強引に彼のデザインを製品にしろとのミッションを仰せつかった。思えば、この一件で、僕は開発部長とイザコザを起こし、鈴木さんは出入り禁止、僕はデザイナーを首になった。そして僕が、家具デザインをやる決心をつけたのも岡村さんとの出会いが始まりだった。
   
  僕は当時、文具のデザインをやっていて、どちらかというと、手のひらサイズの動きモノが専門で、細かい納まりや成型品ばかり相手にしていたので、縫製一発の極まったデザインや、木材加工中心のおおらかな感覚が、苦手だった。だから、家具のデザインは、どちらかというと他人事で、遠目に見ていた。
しかし、鈴木さんは、こんな僕に、スツールのデザイン展に参加せよ、というのだ。そしてこれが、参加しているデザイナーがまた凄い、柳宗理、岩倉栄利、岡村孝、など凄い人たち、若手は小泉誠、浅野さんらの中に突然、無名で素人の、僕がいるのだ。
企画を聞いただけで、死にそうだ、無理なんて言うレベルじゃない!!これはもう「申し訳ない病」で即死レベルだ。
しかし、鈴木さんは、ヤレという。
どっちみち死にそうなんだからやるしかない、そう覚悟したのだった。
   
 

その展覧会の発表会で岡村さんに出会った。
噂には聞いていたが、凄かった、噂以上だった。醸し出すオーラ、大胆なデザイン。そして、人を引きつける力。存在だけで力があった。
僕も作品の隣に佇んでいたが、まるで違う「あんた、誰?ふ〜〜〜ん?」
存在が無いに等しいのだ。恥ずかしさの塊だった。
そんな感じなのに、鈴木さんは僕に岡村さんを紹介してくれた。
しかし、しどろもどろで、真っ当に喋れない。そんな僕に、岡村さんは実に丁寧に色々な話をしてくれた。そして、飲めば飲む程、実に痛い程、本性を見破られる。それだけでなく、デザイン、企業のあり方、そして人生と、何にも得られないはずの僕に丁寧に接してくれた。
僕は、この緊張を、沢山のお酒で誤摩化した。だから、後半どうなったのか覚えていない。気がついたら、岡村さんは床で寝ていて、僕は椅子に座ったまままで、毛布を着て寝ていたらしい。実はこのコトを未だに責められる。
「若杉はよ〜〜、酒飲んで潰れても、毛布を掛けてもらえるんだ。俺はさ〜床だぜ。何だよ、この差は!! 若杉はさ〜何か助けたいと思わせる力があってさ、俺はさ、死なないと思われている。なんだ、おい!!」

   
  しかしまあ、良く覚えているものだ、未だに僕ですら忘れた話を良く覚えているのだ。そうなのだ、岡村さんは実に繊細で人を良く観察している。そして、実にその内面をえぐり出すのだ。あまりにも的確すぎて、正義過ぎて、腰砕けになってしまう。あるとき、とある有名な先生(デザイナー)のセミナーで、岡村さんは、会場の若者や、その方に向かってこう言った。
「あんたね〜、自分の自慢ばかりするんじゃないよ、デザインってね、そんな簡単なことじゃない、生き様そのものだ、だから面白い。だから美しい。そういうことを言わないで、自慢ばかりで、日本の若者が可哀想じゃないか、デザインをさ〜誤解してしまうんだ。僕らがね、ちゃんとしないと、若者が育たない。だから、誤摩化さないでさ〜きちんとデザインの話をしてくれよ!!」
会場から引きずり下ろされそうな、岡村さんを見ながら、僕は熱いものが込み上げてきた。デザインって、僕だって良くわからなかった。審美で、格好が必要なんだろう、理論が必要なんだろうと思っていた。しかし岡村さんの言葉は実に解りやすく、共感できるものだった。目が覚めた。
僕にとって一番解るデザイン論だった。
   
  デザインを首になり、デザインを見失っていた僕にとって、これだけ勇気になった言葉は無い。デザインってソウルなのだ、生き様なのだ、だから面白いのだ、腑に落ちた。
「俺も、家具をやりたい。こんなに人を魅了するデザインをしてみたい」
本当に、そう思った。
相変わらず会社では、デザインの仕事はないのだが、就業時間外にデザインをやらせてもらって、がむしゃらに家具のデザインをやった。だからといってそう、簡単にうまくならない、いやなる訳が無い。やっても、恥ずかしくて見せられる様なものではない。しかし、やっている気がした、楽しかった。
それから、岡村さんが日本に来る度に飲み、語り、しゃっくりと、よたよたの岡村さんをホテル?(事務所の片隅?)に送り届ける日々を過ごした。少しでも岡村さんの話を聞きたい、学びたい、いや同じ空気を吸いたい。そう思っていた。
   
  ほとぼりも冷め、たらい回しされても、どこに行っても使えない僕は、結局、元の部署に戻された。そしてようやく、岡村さんと仕事を出来るタイミングがやってきた。ロビーチェアの開発を一緒にやった。素晴らしいデザインだった、図面を見ながら、試作を重ねた。一つ一つの寸法をバランスを肌で感じ吸収して行った。カタログ撮影の絵コンテを描き、どう伝えるかを考えた。出来ること、考えつくことは全てやった。僕はこの商品をカタログの中に埋もれさせたくなかった。単独の発表会を企画した。予算なんかないが、企画書を書き、DMのサンプルをつくり、提案した。しかし、あえなく却下された。
   
  諦めきれなかった。何度も再提案した。しかし却下の連続。
思いあまって、その企画書を持って、事業部長へ直談判をした。
「お〜〜若杉〜、おもろいやないけ〜、金は出さんが応援したるわ。やったらええ。」
「えっ?いいんですか?」
「え〜〜よ。」
これで、やれることになった。次は大変な総務部長へ直談判。
「ほ〜、中々考えたな。ロビーでロビーチェアを見せるか。よし、頑張れ!」
次は、広報宣伝部長。
「そうか、やるか。解った、何?DM費出してくれって?印刷は段取りついてるって? う〜〜ん。事業部長が応援するって?解った面倒見る。」
最大の問題、会場構成費。
「試作で使うってことで、発砲スチロールでやろう」
   
  これで全てが、そろった。こんな、潮見という場所にロビーチェアを見に誰が来るものか。皆がそう思っていた。僕も心配だった。だから、可能な限り電話をして来てもらうようにお願いした。
オープニング当日、嵐のような天候だったにも関わらず、沢山の方々に来て頂いた。事業部長、総務部長、広報宣伝部長、みんなに
「若杉、やったな!!ご苦労!!」と声をかけて頂いた。
その日は、関わったメンバー、そして岡村さんと美味しいお酒を飲んだ。
伝えることの大切さと喜びを知った。
「デザインって、沢山のことに繋がっている。そして、こんなにも人の心を動かすのか。俺もこの力を手にしたい。」そう心底思った。
   
  そして、相変わらず、開発部長に嫌われ、却下地獄の自分だったが、デザインに関わる毎日が、とても嬉しかった。そんな僕を知ってか、岡村さんがある雑誌の記事でこんな事を書いていた。
「デザインってね、戦いなんですね。デザインする側とつくる側と売る側が、互いに信頼し合って覚悟を持てるかどうかのね、まあ大抵そうは行かない。特に大きな企業ってね、自分たちの大きな力を振りかざして、自分たちの立場を押し付ける。だけど負けちゃいけないんです。勝たなきゃいけないのです。勝つ為にはね、戦いを止めないことです。戦っている間はね、負けはないのです。だから、小さい一人でも戦うのです。諦めないのです。」
   
  僕は、この文章を見てボロボロ泣いてしまった。
上司から嫌われ、余計なことばかりしている僕は、会社での仲間は少なかった。何でも一人でやるしかなかった。そして、戦い続けることにした。
放っとかれていても、知らぬ間に製品を企画し、工場と結託し着々と試作をつくる僕を次第に、皆は構わなくなったが、お陰で邪魔する人も減った。
皆が嫌がる沢山の製品分類や売上集計、分析、製品開発のポートフォーリオを作成するものだから、次第に仲間になってくれるメンバーもチラホラ出てきた。工場のメンバーも一生懸命な僕に手を貸してくれるようになった。
一番裏方の、膨大な量の、めんどうくさい商品を片端からやった。お陰で、何が売れるか?がほぼ見えるようになってきた。
とにかく毎年、沢山デザインすることにしていた。才能のない僕のやれることは、これしかなかったからだ。
   
  僕は、ずっとヨーロッパにも、岡村さんにも聞こえるような会社にしたいと思っていた。そういうブランドが出来上がって、開発の皆が誇り高く仕事ができる会社にしたいと思っていた。その為には、何でもやる決心はあったし、何でもやってきたつもりだ。
しかし、だんだん岡村さんは来なくなった。
「俺のデザインした製品が思うように売れていないのは俺のせいだ。だから、恥ずかしくて行けねえんだ。」と言っていたらしい。
そんなことはない、良い製品が売れないのは、僕たちの売り方が悪いのだ。
いつも、営業から、競合のモノマネ強要との戦いばかりに明け暮れていた。
僕のほうこそ、申し訳なくて、なかなか、声がかけられなかった。
   
  そして、今年の春、久々に岡村さんから突然の連絡があり、7年ぶりに会ったのだった。
岡村さんは全然変わっていなかった。
あのときのままだった。一瞬に時間が戻った。
懐かしい話しをしばらくして、岡村さんは、こう話し始めた。
「若杉〜。あなたは偉いな〜。あなたはね、僕なんか出来ないデザインをやってるんだね〜、デザインをするための、場や人のデザインをね。社会にはね、デザインも大切なんだけど、それを育む人や場がさ〜もっと大切なんだね。君はそれをやってきたんだね。」
僕は何の言葉も発することが出来なかった。
ただ、心の中の固まりが解れていくような感覚を覚えた。
そして、企業の中での孤独の戦いを理解してくれている一人の存在に心震えた。
   
  岡村さんと出会い、デザインに出会い、そしてデザインを首になった。
師匠鈴木さんから、「企業を辞めるな、企業のデザインをまっとうしろ!」との言葉に心を決めた。
まさしく、デザインすることの戦いだった。それは、製品をデザインする仕事をするだけでなく、デザインを理解してくれる人と、価値を繋ぐことだった。
しかし、大半が、企業人の美旗や、仕事という美旗を振りかざした、繋がりなど存在しない、大きな力との戦いだった。
だから、僕は、暑苦しい、めんどうくさい、意味不明な人として集団に嫌われた。
   
  そして、スギダラの仲間と出会った。ジャンルは全く違うが、ここにはその価値を共有する人たちがいた。その見えない価値を、夢見て共に進む人達がいたのだ。
デザインから始まったことだが、デザインの外側にその価値の為に、喜びの為に自分を捧げる沢山の人の存在に、僕の迷いが消えた。
本当は、日々の苦しみや、理不尽を避ける為に、理屈をつけたり、今を正当化せざるを得なかったのだ。そして、未来に繋がって行く喜びを忘れてしまったのだ。
しかし、その忘れることの積み重ねが、今に繋がり、沢山の問題を今に未来の現すことになった。
未来は、創らなければならない、やって来るものではない。
企業のデザイン、ブランドや、未来も全く同じなのである。今を捧げ、未来を創って行く人や場を創らなければならない。
僕は、岡村さんの出会い、デザインの素晴らしさを知り、導かれ、回り回って、課せられたデザインそのものに、ようやく行き着いたような気がした。
思えば、随分、皆に助けられてきた。
岡村さんの言う通りだった。
   
 

日々の仕事は未来につながっている。
生きる為だけではなく、自分のささやかな喜びだけでもない。
生きることは、課せられている意味に通じている。
その意味とは、未来への希望と喜びだった。
デザインって素晴らしい。
また岡村さんに教えてもらった。
僕もその喜びを伝えたい。
そして、そういう人になりたい。
そして、お会いできたことに、とても感謝している。

   
  岡村さんに感謝の気持ちを込めて、そして思い悩む我がチームのメンバーへ。
   
 
  岡村さんと一緒に開発したロビーチェア。デザイン:岡村孝氏
 
  先日お会いした時の一枚。岡村さんは写真左から2番目。
   
 
   
   
  文中に出てくる「師匠 鈴木さん」こと鈴木恵三氏について、過去にこの連載「スギダラな一生」で書いています。こちらも合わせてご覧ください。
スギダラな一生/第第28笑 「絶対やめないということ、師匠 鈴木恵三」
   
   
   
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 テクニカルデザインセンターに所属するが、 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない活動を行う。
日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長
『スギダラ家奮闘記』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_waka.htm
『スギダラな一生』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_waka2.htm
   
 
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