連載
  スギダラな一生/第28笑 「絶対やめないということ、師匠 鈴木恵三」
文/ 若杉浩一
  同胞 松山昭彦さんへ、感謝の気持ちをこめて
 
いよいよ、史上最大の飫肥杉大作戦が間近になってきた。あまりにも様々な事が重なり、どうなってしまうのかさえ想像がつかない。しかし「新しいもの」とは、そういうことかもしれない。想像出来るなんて、既に見た事があるか、経験済みの事なのである。そう言った意味からしても、昔から南雲さんと「全国の杉仲間を集めて、東京ドームで杉デザインの一大イベントをやりたい、一家に一杉」なんて、想像もできないような、アホな事を口走っていたが、今回の日南の出来事は、まさにそれに近い。何かが、集結している、いや様々なエネルギーが形になろうとしている、そう思わざるを得ない。ハラハラドキドキである。
   
  いつかはこの事を書こうと大事にしていた事がある。しかし僕の中であまりにも大きな影響を与えた事であり、いくら尊敬しても、足りないぐらいの人物であり、易々とは書けないと思っていた。しかし、今回はその事を書いてみようと思う。それは、鈴木恵三のことである。現在はBC工房という家具屋さんを経営している、家具プロデューサーである。
   
  そもそも、僕と南雲さんを半ば強引にくっつけたのも、鈴木さんである。もう17、8年位前であろうか、或るパーティーで、背の高い飄々としたデザイナーを僕に紹介し、「若杉さん、あなたは、南雲とつきあうべきです」と全く意味不明な紹介をしてくれた事から始まった。しかし南雲さんから見れば、僕は名があるわけでもなければ、当時は全くうだつが上がらない、デザイナーでもない只の会社員だった。それからも、数回会う事はあったが、南雲さんの眼中に僕の存在がない事は明らかだった。その当時から南雲さんは家具デザインの中では輝いていた、全くもって若手の中では数段、いや、抜きん出ていた。それから、こんな事を一緒にやる事になるとは、今考えると全く想像がつかない。そんな事を期待していたのか、概ね鈴木さんの思惑通りになっている。
スギダラを始めた頃にも、彼は「南雲と若杉のやっている事は、恐らく新しい形を生み出すと思います。もっとやって下さい」と僕らより自信げに話してくれた。
   
  僕と、鈴木さんの出会いは、もう20年以上になる。
入社5年目ようやく、デザインらしきものを手に入れ、デザインの匂いがするものには、何でも噛みついていた。その中で関わった会社の80周年フェアのデザインに鈴木さんが外部のブレインとして参画していたことから繋がりが始まった。
出会った瞬間から、ただ者ではないというオーラを出していたが、彼とデザインのことを話し始めて僕はすっかり、彼に魅了されてしまった。自由でおおらかな思想、人を魅了する人物像、人の本質を見抜いてしまう洞察力、なによりなんというか、めちゃくちゃカッコいいのである。ぼくは、絶対に敵わない、あまりにも遠い存在で、ほんの欠片でもいいから彼から何かをつかみたいと切望した。今でも僕の理想像である。
   
  それからというものの、鈴木さんのオフィスに入り浸り、活動を共にし、彼が考えるデザインの片隅に関わらせてもらった。何が出来る訳でもなかったが、彼が何を考えるのか?どのようにしたら、ああなれるのかの、糸口だけでも感じれたら、と思っていた。会社の仕事には何の関係もないことを手伝い、鈴木さんの素晴らしい仲間達やとんでもない有名なデザイナー達を紹介してくれた。僕は、彼らや鈴木さんを通じて、デザインが何をすべきなのかということを感じることが出来た。しかし、そんな中で自分は何も出来ない、ちっぽけで何の力も持っていない。何の役にも立たない自分を大いに思い知らされた。本当に恥ずかしかった。そんな、馬鹿野郎を、鈴木さんは事あるごとに誘ってくれた。そしてお酒を交わし、未来のデザインや企業の今後について意味すらわかってないだろうこの馬鹿者へ、熱く語ってくれた。今考えると、彼は、僕に何か与えても何の見返りも無いことは解っていた筈だ。現に、もともと開発の上司と折が悪かった僕はそれから、更に会社で、鈴木さんから影響を受け、あるべき論と理想論をぶちかまして、あっさりとデザインを首になっていた。しかも見事なくらいの窓際に追いやられた。組織としては、この暑苦しい、経験もない、うるさい馬鹿者が鬱陶しかったのだろう。
   
  デザインしかできない、それ以外は、まるでダメな、しかも生意気な僕はすっかり、仕事がなくなってしまった。屈辱感と、敗北感、そして会社や社会に何も関わっていない自分と対面することになった。組織とは冷酷だ、全ての権限を握っている長の言われの無い中傷は、人間関係さえ変えてしまうことを、しみじみと感じた。仕事がどうこうより、話せる仲間や、一緒に仕事を出来る仲間さえ、遠のいて行く現実に、ほんとに、ぐれてしまった。
もうやめようとほんとに思った。
   
  その事を察してか、鈴木さんはある日僕にこういった「若杉さん、給料は幾らもらってますか? なんなら、僕が引き受けることは考えています。しかし、僕は自分の経験から、こう思うんです。僕も企業に就職しプロモーションの仕事をしていました、それなりにやりがいがあって、面白かった、しかし会社の制約や企業の限界を感じて、フリーになりました。けど、今思うのは結局どっちにいこうが一緒だった、と思うんです。フリーは自分の好きなことが出来る、しかし企業のように大きなことをやるには結局企業に依らなければならない、だったら企業の中で新しいことをやれる力があれば良かったんじゃないかって。
日本のデザインが世界に出れないのは、デザイナーの力ではない。
ヨーロッパには、素晴らしいデザイナーが沢山いますが、何よりそのデザイナーを活かす、企業の力や社会がある、日本はそれが非力なんです。」
「若杉さん、企業の中でデザインを変える力を作るってことは、フリーのデザイナーの力や、新しいデザインを社会に生み出す原動力なんです。大変でしょうが、ぼくは絶対辞めるべきでない、そして、そこで企業だからこそやれる事を全うしてほしいと思います。」
「こうなった、原因の一端である自分が言うのも何なんですが、絶対に辞めないでほしい、そう思います。」
ぼくは、その話しを聞いて、溢れ出る気持ちと涙で、崩れ落ちそうになった。そしてなにより、自分のことばかり考えて、ササクレだっていた自分のササクレが落ちていくようだった。
この先に何かがあるんだ、そう確信した。
   
  それから、僕はこの言葉をずっと大事にして生きている。実を言うと他には原動力は何も無い、これだけで生きてきた。それぐらい、僕の中で大きな力になっている。
もちろんそれから、事態はさらに悪くなり、社内を放浪する運命を辿る訳だが、僕を否定するエネルギーがのしかかっても、どんなことを言われようとも、妨げられようとも、もうこっちは絶対辞めないと決めている訳だから、仕事があろうがなかろうが、何処にいようが関係ない。ただ、我が道を全うするだけである。横たわる時間も充分覚悟の上である。最後はしだいに向こうの方が疲れてしまうのである、諦めてしまうのである。時間はかかったが、ついには、会社も、ほっとくしか、なくなってしまった。
僕の使いようが無かった思い込みの激しさと、諦めの悪さがようやく役に立ったと思った。
   
  昼は、会社で過ごし、夕方から鈴木さんの仕事や、仲間のインテリアセクションの仕事を手伝う、そして夜遅くまで色々な素晴らしい人たちとの、出会いや、話しに立ち会う事が出来た。睡眠時間は削られていくが、デザインに関われる事だけで興奮し、全てが美しく見えた。そんな僕に彼は「デザインをやることで、遅くなったり、帰れなくなったら何時でも僕の家に泊って下さい」と相変わらずの、見返りすら期待出来ない厚意を寄せてくれるのである。
   
  それから、南雲さんと一緒に仕事をするようになり、盛り上がり、スギダラをつくった。鈴木さんが企画した、僕らとの最後の展覧会「イスコレ商店街」で彼はこう言った「これを最後に、皆さんとはデザインの企画を辞めようと思います。もう君たちはそれぞれで、充分新しい未来をつくっていけると思います。これからは自分のことをやろうと思います。もう後輩ではありません。敵です。」
いかにも、鈴木さんである。これを期に、会う機会が少なくなった。
   
  しかし、僕の中では今でも鈴木さんの思想や、思いが存在している。迷ったとき、行き詰まったとき必ず、「こんな時、鈴木さんだったら、なんと言うだろう」
そう考えると、次が見えるのだ。どこまででも鈴木さんの世話になっている。
いつかきっと、必ず鈴木さんを、喜ばせたい、そして褒められたい一心で仕事をしてきた。
しかし、まだまだ、ちっぽけで、恥ずかしくって、とても、とても、会わせる顔が無い。
   
  今回、僕は日南の仕事で沢山の仲間に出会う事が出来た。そして素晴らしい同胞、松山さんと出会った。最初は衝突ばかりで、遠巻きだった。しかし時間が経つにつれ、熱く未来を語り、一緒に汗を流す仲間になった。そんな彼がこれから仕上げという最も彼が輝く時、いや、彼がこのチームに必要なときに突然、僕にこう言った「僕明日から、飫肥杉課を辞める事になりました、全く経験のない新しい仕事に配置転換になりました。」と押し殺すような声で語った。正直言葉が出なかった。様々な掛ける言葉があったのかもしれない、しかしどの言葉も、発した瞬間に違うような気がした。
悔しいだろう、悲しいだろう、そして腹も立つだろう。なんて理不尽なんだろう。そしてそんな立場に追いやったのは我々かもしれない。しかし、我々に出来ることは何も無い。出来ることと言えば、この先にあるプロジェクトを成功させるまで、形になるまで、絶対やめないということだけだ。そしてその事をもって報いることしか出来ない。
   
  そして、松山さんへ
どこへ行っても、何をしようともそのまま、絶対やめないでいてほしい。なぜならその人がいる限り、素晴らしい未来が必ず存在する。
松山さんと油津の飲み屋で語ったことがある。「若杉さん、僕らが出来ることは人を残すことじゃなかでしょうか、素晴らしか未来を創る人達ばですよ。自分は、な〜んも出来んとですよ。」
僕は思う、それこそが本質であり、そこに大きな喜びがあるからやめなられないのだ。人は、人を作ることが出来る、そして未来に残すことが出来る。
松山さんは、あきらかにそれを創った。まだプロジェクトは出発点ではあるが、彼から貰ったものを大切にして、絶対やめないで進んで行こうと思う。
感動の連鎖を生んだ、同胞松山さんへ、感謝の気持ちをこめて。
   
 
  こんにちは、下妻です。今回の『スギダラな一笑』も考えさせられるお話でした。若杉さんが今まで大事に暖めていた話に挿絵を描くなんて、恐れ多くて滅相も無くて描いていいのですか??という感じでした。
登場してくる四名を思い浮かんだまま描きました。プロジェクトの写真や若杉さんたちの話を聞いていると松山さんや飫肥杉課の皆様に会いたくなりました。
   
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 テクニカルデザインセンターに所属するが、 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない
活動を行う。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長
   
 
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