連載
  スギダラな一生/第44笑「ずっと続くということ」
文/ 若杉浩一
   
 
 
  天草の原稿は時間がかかった、いつものように、一気に書き上げる事が出来なかった。一体自分が何を感じたのかが、あまりにも多すぎて、整理されたものが浮かび上がらない、いやそれどころか、何故か自分が剥がされるような、恥ずかしさと、懐かしさ、それが何なのかが解らなかった。だから、出来事をダラダラ書きながら自分に問いかけていたのだ。書いては読み返し、書いては読み返し。従って皆さんに楽しんで頂くような文章ではなかった。(いつもそうだが)告白もののような感じだった。
   
  さて、今回は、31歳のときの無鉄砲話をしたいと思う。入社6年目、この出来事で師匠鈴木恵三と出会い、そして翌年、デザインを首になる、僕の浮き沈み人生の事の起こりの出来事、アホ道の始まりの話である。
   
  入社5年間の僕は段ボール人生だった、毎日、段ボール箱の印刷版下を手書きで毎夜、毎夜一人で作っていた。膨大な量だった、やっても、やっても段ボールがある、僕の処理能力以上の段ボールが生まれてくるのだ。僕は、このまま一生、何の技術やデザインも身に着く事がなく、段ボールにまみれて行くのではないかという、恐怖の時間と不眠不休の毎日と戦っていた。
  時々原因不明の高熱を出していた。医者から、疲労からくる扁桃腺の腫れだと言われながらも、高度に磨かれた段ボール版下製造マシンである僕の体は、段ボールを見ると、正確に高速に動いていくのだ。そもそも、それが病気だったのかもしれない。
   
  そんな、時間から逃れたいがために、会社の80周年の大記念イベントのメンバーを募集している事を知り、僕は上司にメンバーに入れてくれと懇願した。だからといって段ボールがなくなる訳でもなく、仕事が増えるだけなのだが。 とにかくデザインらしきものに近づきたい、いや段ボール色から抜け出したかったのかもしれない。
   
  チームメンバーの顔ぶれをみて僕は、びっくりした。各組織のリーダー格ばかりである、僕が最年少だった、トップは事業部長(専務だったか?)当社で労働組合をバックに会社と戦い従業員の権利を勝ち取った有名人、ヤクザのような強面親分を筆頭に、弁が立つ優秀なメンバーばかり、そしてその企画を推進するのは電通のイベントプロ集団だった。そりゃそうだ、なんせ億単位のお金をかけるほどの一大イベントなのだ。
  「こりゃ、えらいところに入ってしまった」今頃になって、そう思った。今思えば、おそらく、このまま、静かに佇んでいるだけでも、許されたのかもしれない。
  しかし、段ボール色以外に過剰に敏感に反応する体になってしまっている。 まったくアホである。誰も期待していないのに、電通の企画のプレゼンテーションが次回にある事を知ると、「こりゃ、みんな色々アイデアもってくるばい? こりゃ大変ばい、やるばい、デザインするばい、ぼ〜っとしとられんばい。」とかってに自分もやるものとばかり、思い込んでしまった。なんせ共同作業とやらをした事がない、テーマが出ると自分ごとになってしまうのだ。
  一人でアイデアを練り、コンセプトらしきものを作り、スケッチを描き、認められる、どうかなる、なんて意識はなかった。ただそれをやっている事だけで嬉しくて、いっぱいだった。デザインらしき風景にいる事だけで興奮していた。
   
  電通のプレゼンテーションの日、メンバーを前に素晴らしい語りで、熱っぽくチーフディレクターがコンセプトについて説明していった。プレゼボードも良く出来ていた、みんな頷いていた。僕も、聞き入ってしまっていた。しかし、だんだん或る感情がムラムラと起こってきて、押さえきれずにいた。確かに電通さんの、中身はカッコいいし、うまかったのだが、自分の心に響かない、ドキドキしない、グットこない、「こんな事ではダメだ、ダメなんだ、ダメだ〜〜、おい、お前、出ろ、前に出ろ!!」という僕の中の猛獣が吠え始め、怒りというか、妄想の固まり、いや意味不明なマグマがどんどん膨らみ、溶岩ドームのように真っ赤な顔をしていた。
   
  気がつけば、つたない内容を、ヒョロヒョロのボードを片手に皆の前でフガフガ喋っていたのだ。未だに何を言ったのか、すら覚えていない、ただそのような状況であった事と、皆が笑っていたことと「若杉〜。面白いな〜〜。どうだろうか、またプレゼンしてもらおう。」という、とんでもないことになっていたのは覚えている。
   
  それから、僕はどんどん頼まれもしないのに、勝手にデザインはするは、模型は作るは、次第に電通より出すものが多くなり、ついには僕を電通のメンバーが次第に応援してくれるような関係になってしまっていた。
  そしてついに、入社6年目の妄想野郎にデザインを任せようなんて危険なムードにさえなっていた。
いったい、どんな経緯で、どういう判断で、こんな、とんでもないミスジャッジがあったのかが、どうも思い出せない。
とにかく、ただただフガフガしていただけで、たいした事はしていない。後から振り返れば、笑えるくらいの恥ずかしい内容だった事だけは事実だ。
  しかし、当時は大真面目に何の疑いもなく、もっともらしい妄想をほざいていた。よくもまあ、こんな程度の男に任せようと思ったものだ。もし自分だったら、そんな判断は決してしないに違いない、本当に、いったい何の力が働いたのだろう。今でも不思議で不思議でしょうがない。
   
  だが、実際は簡単な事ではなく、進めば進むほど、めちゃくちゃな仕事量になり、そして、打ち合わせ、細かい交渉ごとと、とんでもない状態になっていく。殆ど、準備室に入り浸ることになり、やがて僕の席を設けてくれるようになってしまった。毎日のように東京に入り浸り、夜は鎌倉に戻り明日の準備と段ボール、前よりひどい毎日だ。
   
  イベントの細かい費用の事、会場の確保やら、デザインに関係が有ろうがなかろうが、関わる全てに関わった。
  企画側の情報系の優秀な先輩から解読不能な未来の話を聞き、電通のディレクターから段取り、根回し、悩みや電通の内情を聞いたり、予算を細かくチェックしたり、まさしく「自噴式、意味不明、市中引き回しの刑」状態だった。しかし楽しくて、楽しくてたまらなかった。どんなに寝なくても、元気だった、毎日の色が違うからだ。沢山の人と合い、新しい話を聞き、大きな事が動いていく。茶色しか存在しない段ボール砂漠ではない、猛獣、珍獣だらけのトロピカルデザインジャングルなのだ。もう、休んでいる場合ではない、興奮の連続なのだ。
   
  テーマは「20年後のオフィス」つまり2010年の未来を形にすることだった。僕は、頼まれもしていないのに、イベントの袋、会場構成、ブース内のデザイン、プロトタイプ家具のデザイン、会場内の小物のデザイン、装飾とありとあらゆるものに手を出し提案した。
  こんなことやっていたら、一人で全て出来るわけがなく、当然、手助けが必要になる。そこに現れたのが外部ブレインとして起用されていた、鈴木恵三親分だった。僕は二人の有名デザイナーを紹介され、一緒にやるべく大御所を紹介してもらった。僕のような駆け出しとは比較にならないくらい凄い人達だった。
  そして、アートや装飾を当時日経デザインの編集部をやめ独立したての芸大出身、長濱さんに手伝ってもらい、芸大を卒業したばかりのタナカノリユキなる奇妙な人物とチームをつくることになった。
  のちに長濱さんは芸大の先生になり、タナカノリユキは、押しも押されぬ、有名アーティストとして活躍する事になる。そして僕は、彼の誘いで芸大の非常勤になり、当社の芸大卒の愉快な仲間がぞくぞくと入社することになる。
  やっぱり、ここから、始まっている。
 

 

  とにかく大変だった、チームがでかければ、当然沢山の人とコミュニケーションを行う羽目になり、僕の妄想を大物に説明しなければならない。当然、こっぴどく否定され、恥ずかしめの連続である。しかし、そんなことよりも、新しいデザインに出会える楽しさでいっぱいだった。
   
  進むにつれ、デザインの詳細、そして制作図面の作成、費用の交渉、一つ一つの工場の社長に協力の依頼、技術者との打ち合わせ、各地域を行脚し、照明、音響メーカーにまで押掛け無理難題に協力していただいた。今思えば、いったいどこからそのような厚顔無恥なエネルギーが出てきたのかさえ思いつかない、おそらく何者かに取り憑かれていたのだろう。
   
  そして、オープン前日、一年間の妄想が次々と現実のものとして形になってくる、恐ろしい規模だった。始めて自分のしでかした愚かさを知った。色々なものが整い、最後はタナカノリユキ氏のアートが中央に入った。もう朝だった、喜び?安心?不安?疲労?何の感情かも解らないまま、貫徹の朝の朝礼を迎えた。そこには、一緒に戦った、苦労した、仲間はいない、誰がやったか、知らない大勢の社員の中で一人目を真っ赤にしていた。
  そして、会が終了し、大盛況の一大事が終了した。何もかも片付いた後、僕は長濱さんと二人ぼっちでお酒を飲み、讃え合った。
   
  今も、あのバカバカしいぐらいのイベントを誰がやったのか、当社の社員は知らない、そしてあの時の100年目への思いが何だったのかも、残ってはいない(内容としては、たいしたものではないが)。
  ただ、無理矢理借りにいった、日本に10台しか無かった薄型液晶ディスプレイはあたりまえになり、携帯電話は日常になり、遠隔コミュニケーションは普通になった。当時の僕にそんな未来は想像出来なかった、ただ、沢山の仲間の思いや、知恵そしてエネルギーが集結してこんなことが起こってしまったのだ。
  「どうしてそうなったのか?何がそうさせたのか?」
   
  会社の記憶には殆ど残っていないが、あの時から、ずっと続いているもの、それは、そこで出会った鈴木恵三親分、長濱さん、そしてその他の仲間達との100年目の今だ。その繋がりはやがて南雲さんと出会い、スギダラになり、芸大と繋がり、沢山の素晴らしい人と出会い、学生はメンバーになり、僕の人生を大きく左右する事になっている。
   
  イベントの、中身がどうだったのか?何の意味が合ったのか?は未だに解らない、ただ、言えるのは、バカバカしいぐらいの妄想と、エネルギーが、何かの判断を狂わせ、そこに想像を超えるエネルギーが集まり、僕も含め、会社の今を変えてしまった。
   
  あの時から始まり、あの時から、ずっと続いているもの、それは、何かに到達する感じ、仲間と作る喜び、そして、バカバカしいぐらいに真直ぐ進む事、そして最後のおいしいお酒。
   
  意味なんてないのだ、答えなんてないのだ、僅かな確からしさと、感動のお酒の連続が、自分を、未来を変える力を持っている。恥ずかしさや、見栄え、評価、安心、安全、一般論、の裏側の自分を信じていくしかない。さあ、未来へ、本当に面白いな〜〜。 こう一。
   
  (悩める、コバ、坂本そしてバラバラになった若い仲間へ)
   
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 テクニカルデザインセンターに所属するが、 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない
活動を行う。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長
『スギダラ家奮闘記』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_waka.htm
『スギダラな一生』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_waka2.htm
   
 
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