特集 天草・高浜フィールドワーク2011開催
  高浜フィールドワークの感想ぞくぞく!
   
 
天草市・高浜町
   
  (この文章は2011年7月26日より8月1日まで・・・約一週間をかけ.金澤一弘が仕事の日常の合間に書いた文章です。他の人の文章よりもかなり長文なので、どうぞ覚悟してお読みください)
   
  高浜で考えたこと 1
  文/ 金澤一弘
   
  天草は遠い・・・・プロローグ
   
  知り合いが工房に半年ぶりくらいにやってきた。色々話をしていて、最近天草が遠く感じるという話になった。実際・・・私も熊本や福岡で展示会を開催した時など、天草は遠いという話を頻繁に聞くようになった。物理的な距離でいえば天草は相変わらずの距離なのだが、時間軸で考えると、いつの間にか天草は相対的に遠い場所になってしまっている。余所から来る人達にとっての実感が天草は遠い・・・そうなりつつあるのだ。一般の人の率直な思いは実はとても重要なポイントだと思う。私が住んでいる旧本渡市までの所要時間は熊本から2時間。天草の西海岸までだとおよそ3時間半。これだけの時間があれば熊本市から、車で行くにしろ、新幹線で行くにしろ、九州を遠く離れ・・・車でならば山口県まで行くくらいの時間だし、新幹線を使えば大阪まで行けるほどの時間である。つまり天草は時間軸だけで考えると、山口県や大阪市と同等と言うことになる。とんでも無い時代になったと思うが、この件に関して、時間を短縮する有効な方策は見えてこない。天草が遠く感じる正体は、天草が遠くなったのではなく、それ以外の場所が近くなったことが原因だが、一般的には遠くなったという認識が強い。そう思われること自体・・・相当な問題なのだが、この問題を解決する手段は今のところ全く見つからない。
   
  遠くなったという認識が一般的であれば、その認識に立ったところから様々な発想を始めなければと思うが、今のところ関係者からはそう言う認識で、何か考えているという兆候は見えてこない。私と話をした知人は、世間話のついでに何気なく遠くなったと言ったのだが、その言葉を聞いて私はとても重い言葉だと感じた。ある地点からある地点まで移動する時に、近くなったと言うことは一般的には誉め言葉だ。逆に遠くなったという表現はあまり良い印象として語られることはない。熊本から福岡まで行く時に、新幹線を使えば30数分で到着する。熊本と福岡はとても近くなった。これは良い事だと皆が認識している。しかし、結果として福岡に宿泊する人は減ってしまうだろう。同じように福岡の人が熊本へ来る場合も、宿泊する人は減ることになると思う。近くなったことは・・・便利にはなったが、果たして良いことなのか・・・・一般的には近くなったことはよいことだと考えられるのだが、すべてが良くなるのかと言えば・・・一概にそうとも言えないと思う。とすれば・・・天草の人間は知人の言った一言、天草は遠くなったという言葉を、もっと真摯に考え戦略を建てなければと思う。近いことのプラスと、近いことのマイナス。それと同じように遠いことのプラスと、遠いことのマイナス。本来はこの地点から、様々なことを考え始めなければならないのではないか・・・・
   
  近いとすぐ帰れる。すぐ帰りたくなくても・・・すぐに帰らなければならない。逆に遠いと、すぐ帰れない。すぐ帰りたくてもすぐには帰れない。どっちも一長一短がある。すべての人がすぐ帰りたいわけではないということも本当のことだろう。とすれば・・・すぐ帰りたくない人に的を絞り、天草に来る人を絞り込む必要がある。例が正しいかどうかは判らないが、家族と同居している人で・・・姑さんと家に住んでいる人がいる。こういう人達は姑さんが家にいることを億劫だと思っているはずだ。この人達は凄く良いターゲットになると思う。天草親孝行ツアーを企画する。天草に来たら一週間くらいは家に帰らないツアー。海外だと心配だが・・・近場の天草なら安心して送り出すことが出来る。湯治場のような安価な施設があれば、長く滞在しても、家にいる経費とあまり変わらないくらいの対価で滞在することが出来る。天草は安全なところなので、そういう需要に関してはとても有利なところではないか。島内に温泉と名の付くところも沢山あるので、毎日一つずつ温泉に入っても、かなりの日数滞在することが出来る、天草には浮き世を忘れさせてくれる時間もゆったりと流れているわけで、こういう天草のメリットを生かした観光を提案するべきなのではないか。
   
  日本の古い言葉に命の洗濯という言葉がある。天草は宝島という表現で観光開発をしているが、それと同じような表現で、命の洗濯の出来る島とすればよい。何日か前の日記にカラオケは日本人が発明した非常に優れた発明だと書いた。温泉に浸かり、カラオケに興じて過ごすことが出来れば、長く止まることが出来る、何処にもない観光地が出来上がるし、当然のことながら、家に帰りたくなくなる人も出てくるだろう。天草は観光地だと言われている。人が何かを見るためにやってくる場所だから、観光地であることに間違いは無い。しかし、東北から九州・鹿児島まで高速鉄道網が完成した現在、観光地としての立ち位置を、変えるべき時を迎えていることも確かなことだろう。どんな観光地を目指すのか、各々が知恵を出し合って考える作業を、早急に行わなければならない。日本は情報過多で、何処かの観光地がイベントを行い人を集めたとなると、すぐに同じようなことを始める傾向が強い。先進地を見学して先進地をまねても、オリジナルな場所を作り上げることは困難だ。じっくりと考えると・・・遠いことは、一方的に悪いことではないと思う。その事実を頭に入れて計画を作り上げることが、肝心だと思う。久しぶりに工房にやってきた知人と話しながらそんなことを考えた1日だった。
   
   
  高浜で感じたこと その1 (限界集落と回復集落のための標を作る)
   
  もう10日ほど前になるが、天草町の高浜に藤原教授が調査に行くということで、私も初日の夜だけ参加した。参加したと言っても宿泊先の旅館で焼酎を飲んで帰っただけだったが、その時の感想をというメールが届いた。私は工房から約1時間を掛けて高浜へ行き、焼酎を飲んだだけなので感想をといわれても・・・しかし、一飯の恩義はあると思い、私が普段から考えていることを含めて、いくつかのことを書いてみたい。まず最初に指摘しておかなければならないことは、これが単に高浜だけの問題ではないということ。日本は戦後一元的に発展し、今、衰退する局面を迎えつつある。中央集権化することにより未曽有の発展を遂げたが、少子高齢化を迎え衰退が現実的になりつつある今、都市には都市共通の問題が存在しており、地方には地方共通の問題が存在している。その背景には、この国が極めて短期間に画一的な近代化を行ってきたことが有るが、その事に関しての話は、別の機会に譲るとして、高浜の問題・・・あるいは課題は、この国の地方が共通して抱えている課題でもある事を指摘しておきたい。
   
  問題を辞書でひくと以下のように記述されている。
   
  もん‐だい【問題】
(1)問いかけて答えさせる題。解答を要する問い。「試験―」
(2)研究・論議して解決すべき事柄。「公害―」
(3)争論の材料となる事件。面倒な事件。「また金銭の事で―を起した」
(4)人々の注目を集めている(集めてしかるべき)こと。「これが―の文書だ」「―作」
   
  同じく課題を辞書でひくと以下のように記述されている
   
  か‐だい【課題】
題、また問題を課すること。また、課せられた題・問題。「今後に残された―」
   
  今回の藤原教授に対する住民の期待とは・・・何かと考えると、次のようなことが期待されているのだろう。  最初に私は日本は都市も地方も同じような問題を抱えていると書いた。都市における課題については、今回の問いかけには存在しない。何故なら高浜は都市ではないからだ。高浜は統計的な意味で記述すると、人口流失が激しい地方に分類される地域だろう。限界集落には到っていないが、このまま進めば限界集落へ向かって、加速度的に人口が減少する可能性を持った地域だと考えることが出来る。  藤原教授に対する住民の設問は、高浜が今後限界集落化しないための方策を見つけ出して欲しいと言うことだと思う。  勿論そう言った問いかけに対して、完全無欠の答えを出すことは、如何に藤原教授と言えども困難な宿題だ。私に課せられた宿題ではないが、私も天草に住んでいる人間の1人として私なりに考えたことを書いていきたいと思っている。勿論、これは私の私見であり、私が考えたことなので、妄想に使いところもあるかも知れないが、妄想こそが次に繋がるポイントになるかも知れ無いと思いきって、書いてみたいと思う。
   
  第一条件
  これからの地方に於いて、金銭至上主義で地方を運営することは不可能に近い。国の国債発行残高を見れば、この国に地方を今までのように手厚く保護する余力がないことは一目瞭然だ。国にも地方にもお金が無いので、金銭を一番に置かない地方を作らなければならないが、如何せん・・・人は金銭がなければ生きていくことが出来無いことも確かなことである。高浜を作り上げるための別の価値観については、様々な調査を行い見つけ出す必要があると思うが、高浜が、今後継続的に人が住む地域として生き残るために、幾らくらいの必要な金銭が必要なのかについて、具体的に調査していく必要があると私は思う。
   
  勿論、この程度の係数であれば、既に計算式が出来上がっているはずだから、それを使えば・・・高浜が、今後人口を減らさず、緩やかな人口増を達成するために、必要なお金がどの程度なのかが判ってくるはずだ。高浜を考える上で、最初に提示しなければならない数字が、高浜の近郊を維持するための大まかな金額を出す作業だと私は思う。勿論、これは経済優先の数字ではなく、地方における数字なので、統計的なデーターをしっかり読み込んでいくと、限界集落化している地方と、限界集落化しない集落の経済的な分水嶺が存在すると思う。
   
  様々なことが言われているが、限界集落化している地方には、人が生活するためのミニマムな収入が担保されていないところが多く、その事で直接的に人が外に出て行かざるを得なくなり、限界集落が発生するというメカニズムだと私は考えている。つまり、全国の限界集落化したところの、1人あたりの住民所得を調べていくと、人がそこに継続して住めなくなる限界収入が判るはずで、統計的な見方でその数字を割り出すと、限界集落臨界線のようなものが見えてくるはずだ。この数字に対して、高浜がどの位置にあるかを、調べることから始めて見ればよいと私は思う。
   
  次に調べなければならないのが、この逆のケースだろう。都市よりおおむね100キロ以上離れている地方で、人口が増えているところを調べる。恐らくその場所は住民の所得が増えているはずで、増えている根源が何かを調べる必要がある。そういう地点は全国的に見てもそう多くはないだろう。私の直感として10カ所有るか無いかくらいだと思う。
   
  この二つを限界集落と回復集落と呼ぶことにしてみる。高浜が望むのは回復集落化だから、限界点にたいして調べを進めていくと、回復点が自ずと見えてくるはずだ。この二つの地点に対し、今の高浜がどのレベルにあるのか。それが判ると、今後どの程度のテコ入れをしなければならないのかが判ってくると思う。高浜がまず初めに諸処の資料をひっくり返して、調べ上げなければならない始発点は、ここにあると私は考えている。
   
  高浜で感じたこと その2(産業構造を調べることの重要性)
   
  始まりに高浜の現状を数値的なことを使って、検証する必要があると書いた。これは私が物事を進めていく時に必ず行う作業で、私はそのことに対して次のような言葉を多用する。我々は、今・・・この土地に立っているが、今からを考える時に、絶対的に必要な要素は、今までがどうだったのかを知ることである。今、この場所に立っている我々が将来を知りたいと思うのであれば、何処から来たのかを知ることが極めて重要になる。現状を知りたいと思えば、それ以前はどうだったのかを調べる必要が出てくる。今を知ることと同時に、以前を知ることは、これからを展望する上で最も重要な標となる。高浜は陶石の取れる地域で、上田陶石の特上石は平賀源内が書いたとおりの天下に二つと無い良品である。しかし果たしてそれだけだったのか・・・・過去をつぶさに調べれば産業構造が判り、町が上を向いていた時の構造が見えてくるはずだ。町の経済を高浜の陶石だけで創り出していたかどうかは、調べてみなければ判らない。それ以外の産業が存在していたのかも知れないし、陶石だけで賑わいを作り上げていたのかも知れない。いずれにしろ1番目の調査で今がどうなのか判れば、次に調査すべき事は、今までがどうだったかを調べることだと思う。高浜の経済を支えた産業の正体は何か。そしてその産業は、今でも残っているのか?さらにはその産業が今後とも経済の枠組みの中で、対外的な意味での価値を保つことが出来るかどうか?これらを調べることが第二のポイントになってくると思う。
   
  一つの産業を育てるためには膨大な時間が必要になる。私は天草に於いて陶磁器の産業化を進めているが、その拠り所は・・・江戸中期よりこの島で焼き物が作られ、なおかつこの島に世界的に見ても極めて優秀な陶石が産するということが産地化を行う根拠となっている。地域文化として観ても陶芸の産業化はとても有効な手段だと言うことに異論を挟む人は皆無だ。しかし、未来を見渡すためには、過去を調べ、今を論じなければならない。陶芸という産業の創出は天草全体の宿題だが、高浜も同じように、将来の普遍的な計画を作成するために、過去と現在を調べ、それを依り代として未来を見渡さなければならないと思う。スギダラケの会長が良い焼物が・・・かって高浜で焼かれていたと町の人が話していたと宴会で話をされた時に、私はそれがいつの時期だったかについて少し執拗に話をした。陶芸という仕事は技術集団である。30年前によい焼物が出来ていたのであれば、技術を持った人が・・・そこに存在している可能性があるが、150年前であればそういう技術を持った人達の根は絶えている。陶芸の技術者はそう易々とは育たない。私の経験で言えば10年でようやく一人前。従って、何年前に良い焼き物が作られていたのかは、私のようなプロの視点で見ると、とても重要なポイントなのである。
   
  産業構造を調べることによって、かつての町の構成がどうなっていたのか判るようになる。斜陽化が最近であれば、まだその仕事に携わっていた人達が多数存在している可能性があり、再構築する上でとても有力な情報を持っていることが考えられる。逆にその産業が衰退してから長い年月が経過していれば、産業遺産としての価値は存在するだろうが、実際に現場を知っている人を見つけ出すことは出来ない。地域を再生させる時に、その土地に実際に再構築する仕事に従事している人がいるかどうかは、とても重要なことだ。残っていれば、その人はすぐに指導者となることが出来るわけで、現業の仕事に就いていた人が存在するかどうかは、そういう人がいなかった場合を考えれば、再構築へ向けてとても大きなポイントになる。どんなに繁栄を誇っていた産業でも時間という巨大なエネルギーに晒されると、衰退という現実に突き当たる。かつて天草は黒いダイヤと白いダイヤが存在すると言われていた。黒いダイヤとは無煙炭で、白いダイヤが天草陶石だ。軍隊が存在していて、石炭で動く船が主流だった頃・・・・天草の無煙炭は国内で屈指の有力な燃料だった。それがあっと言う間に無くなったのも、時代という大きなうねりがあったからだ。
   
  高浜を考えるその2では、統計が取れている限りで産業構造の変化を調べる必要があることを提案したい。高浜の産業がこの100年間にどのような産業を営んで、人々の生活が続いてきたのか。私見ではあるが恐らく、一つの産業に偏らないような構造があったのだと思う。何故なら・・・一つの産業に偏った地方は直感ではあるが、もっと大掛かりに疲弊していると思えるからだ。恣意的になのか、そうではないのかは・・・ともかくとして、私には高浜が余所と比べ、特段・・・著しく疲弊しているようには見えない。いくつかの産業が複合して密接に関わりながら町を形成していたのではないか。そう思うが故・・・産業構造をしっかり調べる必要があると思う。私は今の天草の疲弊の根本的な原因は、公共事業の衰退だと考えている。公共事業は天草にとって、最も確実にお金が流れてくる産業だったからだ。舗装率98パーセントというのがその証拠で、天草は離島振興法、半島振興法に手厚く助けられて、公共事業の依存率が高かった。公共事業が主たる産業と言えるほどにこの島を支えていたことになる。過去を調べる重要性は、町を支えていた鍵を探ることである。高浜を考える上で2番目に重要な事は、産業構造を調べ上げることだと私は考えている。
   
  高浜で考えたこと 2 へつづく…
   
  ●<かなざわ・かずひろ> 天草・丸尾焼五代目窯元
   
   
   
   
 
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