特集 天草・高浜フィールドワーク2011開催
  高浜フィールドワークの感想ぞくぞく!
   
 
高浜で考えたこと 2
  文/ 金澤一弘
  高浜で感じたこと その3 (作間稼ぎ)
   
  高浜で考えたことの1と2では、高浜の過去と今を検証することから始めるべきだと書いた。その役割は地元の人達にあることを指摘しておきたい。こういった過去の歴史は統計に表れないことも多いからだ。統計上は農業となっているが、傍らで上田陶石に務めていた人がいる。陶石を掘り出す仕事を農業の合間に行っていた人達が確実に存在する。そして、それは統計上にはなかなか現れないことでもある。現代とは労働を金銭に置き換える社会だ。専業化の進んだ時代だと言えるだろう。会社は従属することを求め、別の仕事に就くことを許さないケースが多い。産業革命は専業化の歴史でもある。上田宜珍はその著『陶山遺訓』において、以下のように書き遺している。「陶業の素晴らしさ、他の仕事に優っているところを考えてみよ。老いた人も幼き子も各々日々の営みがあり、職を持たず困窮した人も、この仕事を頼り、体の不自由な身でも絵を描き、絵薬をうつし、縄をない、筵などを編む営みをおこない自分で衣食を賄うことが出来る。農民も作間稼ぎに松の大束を刈り取り、あるいは陶石を切り出し、荷を浜に出し、それらを日雇い稼ぎとし、その他にも牛馬を飼うことが出来ない貧民は、長幼の区別無く薪柴を刈り取って金を得て、世渡りの助けとすることが出来る。こうした思いを持って49年前に私の先代が生きていらっしゃった時に、財産を投じてこの地に初めてこの職業を興した・・・・」と表している。 な自然と水がなければ、食味の良い塩は取れないのだそうだ。
   
  作間稼ぎとは農閑期に農業を行っている人達が行っていたことだ。農業だけでは金銭収入がないので、他の仕事で現金収入を得る。陶山遺訓を読む限りそのような行為は、上田宜珍の時代から行われていたことになる。そして恐らく昭和から平成に掛けての数十年間、高浜に於いても上田陶石はその役割を果たしたと考えられる。勿論上田陶石だけがそういった役割を担っていたわけではない。作間稼ぎという県行政について大きな役割を果たしていたのが、公共事業だったと考えられる。勿論、これは何も高浜に限っていたことではなく、どの地方でも同じことが起こっていたわけで、その始まりは田中角栄の日本列島改造論だろう。田中角栄はそういうシステムを作り上げ、富の再分配と自民党の長期安定政権という基盤を作り上げた。国策による全国的な作間稼ぎのシステムを作り上げることにより、安定的な政権基盤を作り上げたのだ。天草の場合一般的には五反百姓と言われる。5反の耕地では専業化することが困難で、必ずといってよいほど作間稼ぎが必要になる。逆に言えば・・・これから以降の地方は、すべて作間稼ぎを見いだす大競争の時代に突入したとも言えるのではないか。私の歴史認識は以上のようなことなのである。
   
  高浜の人達が、これから今より人が集まるところを再構築しようと考えるのであれば、血眼で過去を調べる必要があると私は思う。何故なら高浜に限らず・・・これからの地方は兼業化でしか生き残れないと私は思うからだ。安定的な生活を営むために必要な金銭を100として、専業的な仕事で得ることが出来る収入が60だとしよう。不足するのが40・・・この40をどうやって稼ぎ出すかが、これから地方が生き残るかどうかの分岐点になるだろう。血眼で過去を調べなければならないと考える理由は、過去には、その土地に纏わる本質的な策が潜んでいると考えるからで、ひょっとすれば、今でも息づいているものが存在するかも知れないと思うからだ。かつて私は作新学園大学の高橋という教授と高浜の人口過多の話をしたことがある。高浜には江戸中期以降・・・石高から比べて3倍ほどの人口があり、その理由について話をしたのだった。私は天草の人間は芋を食べていたので、何とか凌げたのではないかと話したが、高橋教授は私の考えを一笑にふし、芋だけでは石高に対して3倍の人口など養うことは出来ないと断言した。高橋教授は、これは私見だと述べた後、高浜の富の源泉は「抜け荷」ではないかと指摘したのだった。
   
  勿論、それが正しいのかどうかは判らない。しかし江戸時代に、何故、高浜の人口がそれ以外のところの3倍も居て、なおかつ姥捨ての記録さえないのか・・・つまり、その時代に高浜は確実に潤っていたのだ。町をどうするのかという問題は、ただ他者からの答えを待ち、過剰に依存するだけでは解決へは向かわない。自分たちが何処から来て・・・今・・・何処にいてということを、しっかり認識して初めて、未来に向けての姿を描くことが出来ると私は信じている。その土地に生きた人達がどのような営みを重ねて生き続けてきたのかを知ることは、町のビジョンを作る上で本質的な宿題だと思う。私は高浜の問題は日本中に共通した問題だと思っている。そしてその問題の根幹は「現代における作間稼ぎ」を見つけ出す行為なのだと考えている。遺失したものを何で補うのか・・・その答えを出せるかどうかが、生き残りの鍵になる。田中角栄以後・・・この国の地方は考えるという作業を放棄したように見えたりする。田中角栄はやはり天才的な人物で、数十年単位で・・・この国すべてに繋がる枠組みを作った人だと思う。勿論、それは良きにつけ・・・悪しきに付けなのだけれど・・・それが改造だったのか改悪だったのかは判らないが・・・そのシステムは終焉を迎えつつある・・・今。地方に生きる人達は自らの力で作間稼ぎを考える時代に突入したのである。今はそういう時期だと私は考えている。
   
  高浜で考えたこと その4 (面倒なことを面倒がらずに行うところを作ろう)
   
  プロローグから数えると今日で高浜で感じたことも5回目となる。天草が遠くなりつつあること。高浜をどう再構築するのか、その要諦が過去を調べることと、今を知ることにあることを書き綴ってきた。作間稼ぎを見つけ出すことにあるのではないかと言うことも書いた。今日はそれに加えて、住民の将来ビジョンをどう作り上げるかが、とても大きな課題だということを書いてみたい。私には弟子が沢山いる。彼等は私の工房で年限を区切って修行するケースが多いが、彼等が独立するときに、私が注意するいくつかのポイントがある。私のところで修行をする人たちは、何処で独立するかが決まっていない人が、半分ほど存在している。家に土地があり独立の場所が決まっている人もいるが、何処で独立するか決まっていない人も半数ほど存在する。彼らは自らが独立する場所を探すことになるのだが、私は彼らに地球的規模で、自分が独立する場所を決めるべきだと話すようにしている。自分の作品の傾向をしっかり把握して、どの土地が一番自分が窯を開くのに向いているのかを見極めることは、とても重要なことだと思うからだ。独立する場所が決まっていないと、何処ででも独立出来る強みがある。このことを積極的に考えるか、消極的に考えるかで、その後の展開が違ったものになると思う。
   
  尤も、未だに海外で独立したいと言い出す人はいないし、生まれたところや、良く知っているところで窯を開く人が多いので、あまり突飛な事例はないが、あらかたの場所が決まった時に、私は、その土地の受け入れ体制が、しっかりと整っているかどうかが、一番のポイントだとアドバイスすることが多い。かつて実際にあった話だが、独立する人を受け入れるという条件で話が進む時に、あるところまではとんとん拍子に事が運んでいったのだが、独立以降の・・・面倒見のところで全く話にならない点がいくつも見えてきた。いわゆる・・・来るまでは歓迎するが、来たあとは「ホッパラカシ」という状況だったので、その土地に窯を開くことを強く反対したことがある。観光の目玉として、彼を欲しかったらしく、陶芸が出来る町というキャッチフレーズで集客したかったようだ。私は基本的にこういう安易なプランが好きではない。また、自らの思いで窯を開きたいと独立する人間にとっても、いきなり観光のための役割を担わせられる事は、まったものではないと思う。彼等が10年間もの修行に耐えることが出来るのは、モノ作り一本で世渡りをしたいと思っているからで、観光のために陶芸家を志す人間など、私が出会った陶芸家の中には一人もいないのだ。
   
  陶芸家の一方的な思いを書いたように思えるかもしれないが、人を送り出す側からすると、受け入れるところにも、受け入れる意志が必要だと思う。例を示すと直島がわかり易い。この島はベネッセコーポレーションがアートの島として開発している。現代美術の大きなイベントを開催しているので、多くの人が訪れるようになったが、夏の今ぐらいの時期の毎週末は、それこそ人でごった返すことが多い。土曜の朝からとか・・・日曜の朝から、一般の住宅街に作られた、現代美術の空間を人が見て回るのだが、その企てには何の関係もない地域住民にとり、実に迷惑千万なことだと思う。日曜の朝っぱらから見ず知らずのよそ者が庭先を徘徊しているのだから、自分の事として考えても・・・たまったものではない。観光地化すると言うことは、人が押し寄せることでもある。人が押し寄せることは、ひっそりと生きていきたい人にとっては大迷惑な話で、町を考える時に一番必要なことは、その土地に住む人たちがどういう生活をしたいのかを、しっかり話し合うことだと私は思っている。
   
  多少の喧噪は我慢しても人が沢山来る場所を作った方が良いのか、それ以外の発展を考えた方が良いのか、はたまたそういうことをクロスした方法を考えた方が良いのか、選択するためには、地域住民がしっかりと話し合いを重ね、あらかじめ結論を提示するくらいでなければと思う。かつて私の友人が阿蘇で友達の土地を借りて窯を開いた時期があった。貸した側は窯が出来ると、多少賑やかになる程度の認識しかなかったが、土地を借りて出来た窯が次第に人気が出て、観光バスが訪れるようになった。土地は広かったので、半分を窯に貸して半分の土地では地主が野菜を作っていた。所謂、日曜菜園というものだった。焼き物人気で次第に人が寄るようになってきた窯に、ある日曜日・・・観光バスが3台やって来た。窯には1人用のトイレしか無く、バスのお客さん数人が、家庭菜園に向かって、立ち小便を始めたのだ。その光景を見た地主は血相を変えてなんとかしてと・・・言葉を連発した。結局、その窯は出て行かざるを得なくなり、土地を求めてほかの場所へ移転したが、ことを起こすと・・・すべてがバラ色である訳ではない。良い面もあるし、悪い面も存在している。この問題は・・・決して小さな問題ではなく・・・その土地の将来とそこに住む人を考えれば、とても大きな問題なのだ。その町に住む人たちにとり、一番大切なことであるにもかかわらず、あまり話題にならないことが多いので、このことに関して、実はとても大きな問題だと指摘しておきたいと思う。
   
  高浜に関してすでに4つのことを書いてきたが、今日までの4つはすべて住民の宿題だ。どれをとっても面倒なことだと思うが、面倒なことを地道に行うより方法はないのだと断言できる。戦後日本は面倒なことを放棄してきたのかもしれないとさえ思う。生き残るためのキーワードの一つは面倒なことを面倒がらずに行うことなのかもしれない。
   
  高浜で考えたこと その5(地の利を考えてみること・リサーチの勧め)
   
  高浜で考えたことも5回目となった。今回はプロローグとエピローグを含め10回で終わろうと考えているので、今日が実質的には6回目。今日からは少し視点を変えて書いてみたいと思う。プロローグとして天草は遠いと言うことを書いた。このことは今や誰でも知っている天草共通の課題だ。プロローグには少し書いたが、天草は遠いという事実をどう解決するかという課題について書いてみたい。この問題の解決に関しても、私は過去の天草にヒントがあると感じている。天草は陸路だけを考えると、遠いところだ。高浜まで熊本からでも3時間半くらい時間が掛かる。この問題を江戸時代の人は、海路を使うことによって解決していた。陶石をトラックも橋も存在しないときに、陸路で運ぶ事は極めて困難である。船という運搬手段が存在していたからこそ、天草陶石を運ぶことが出来たとさえ言えそうで、実際に採石場から陶石を掘り出し、陶石を生成するところまでの運搬に相当苦労したようだが、一旦、素選りが済んで港まで持って行けば、あとは海の道を通じて塩田まで運ぶことは容易だったという。天草は海の道で各地とつながっている。陶石は鹿児島にも送られているし、長崎との交流も海伝いに頻繁である。
   
  江戸時代には天草の人は西海岸の地域の人は長崎に出稼ぎに出たり、勉強しに行っていたし、今でも富岡の人たちは長崎に飲みに行ったりすることが多いという話を聞く。牛深方面の人は長崎ではなく、鹿児島に出て行く人が多く、鹿児島の高校に進学する人も多い。私が住んでいる本渡は、明治維新に熊本県に天草がなって以降・・・急速に発展したところで、熊本県との関係が天草では最も近いところだ。高浜を中心軸にしてコンパスで円を描いても、鹿児島と長崎それから熊本はほぼ同じくらいの距離となる、遠近を陸路だけに限定してしまえば、天草はとても地の利の悪いところになってしまう。しかし、見方を変え地の利の悪さをあらため海の利・地の利と再定義すると、高浜は3方向から等距離に存在しているところになり、この3カ所から人を引き込むことが出来れば、3県の人に対して仕事を仕掛けることが出来る所だと言えそうである。鹿児島・天草・長崎の三県架橋の話があるが、橋を架ける前に、しっかりした交通体系としての海の道を作れば、通過型と滞在型を兼ねた観光が出来るのではないだろうか。陸路で3時間半は今の日本人にはかなり難しい場所だ。陸路も重要だと思うが、海の道を有効に・・・作り上げる事は高浜だけではなく、天草全体の課題だと思う。
   
  日本人は徳川幕府により海を消された時期がある。そのため海上交通網が交易以外に発達していないのだが、近海に限定した海上交易はしっかりと生きていた。牛深ハイヤ節が全国200カ所に及ぶ地域に広がった理由は、近海の交易が主流だったからで、この近海型の交易はキールを持つことを禁じた鎖国政策故のことで、かつてのこの国のかたちが作った現象だとも言える。海の旅はそうそう急ぐこともないし、時間がゆったりと流れる移動手段でもあるので、天草の観光を考える上では有効な方法だと思う。もう一つ指摘しておきたいのは、地方のメイン都市から3時間半かかるところで、過疎化や限界集落化の起きていないところをリサーチすることだ。おそらくそんなところは全国でも数えるくらいしか存在しないだろうが、それでも・・・幾つかは有るはずで、そういうところを血眼になって探し出す必要があると思うのだ。今のような時代に雄々しく存在している地域は、必ずなにがしかの基幹産業が存在しているはずだ・・・・都会から遠く離れているにもかかわらず、繁栄を続けているところには必ず大きなヒントが潜んでいる。そこが何処なのか・・・私には判らないが、統計資料などを基に調べると必ずそういう場所が見つかるはずだ。
   
  高浜が都会から遠く離れていることについては疑いようがないが、同じような条件下でしっかりと生活が成り立っているところもあるのではないか。そういう場所の、地域戦略がどういうことかも、しっかりとリサーチする必要がある。出来れば熊本市と同じくらいの町から、時間的な距離が3時間半くらいのところで、町が豊かに動いているところを知れば、そこは高浜にとって先生になり得ると思う。同じくらいの条件下で・・・という範囲でリサーチしなければ意味がない。そういう先を歩いている場所を探し出して、その原因を研究し、これからの町作りの指針とすることが望ましいと私は思う。どんな状況になっても、この国すべてが滅んでしまうことはないだろう。どこかに今の高浜にとって最適解の答えを作り上げつつあるところが存在しているはずだ。完全に成功しているところである必要はないと思う。ただ導となるようなところがあれば、そこを一つの成功へのイメージのできる場所として、高浜の人たちが将来のビジョンを見られる場所にすればよいと思う。地の利の悪さを地の利に変えることと、全国的視座で観て、成功へ進みつつある場所をリサーチすること。この二つがとても重要だと思うのである。
   
  全く条件の異なるところへ行っても、私はあまり意味がないと考えている。都会から近いところには近いという地の利がある。そのことは高浜とは全く違う条件だ。同じような立地条件のところを標として、企て事の参考にすることが・・・地域を考える決め手にもなる。そういう意味でも・・・高浜の距離感と・・・同じ条件下で取り組みが進んでいるところを見つけ出すことは、とても重要なことだと私は考えている。
   
   
  高浜で考えたこと 3 へつづく…
   
  ●<かなざわ・かずひろ> 天草・丸尾焼五代目窯元
   
   
   
   
 
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