特集 天草・高浜フィールドワーク2011開催
  高浜フィールドワークの感想ぞくぞく!
   
 
九州大学 藤原恵洋研究室 -その2-
   
  天草・高浜フィールドワーク2011 〜真夏のZIKIの体験談〜
  文/ 北岡慶子
   
  7月16日〜18日でのフィールドワークは、他では得られない貴重な経験だった。その間はずっと高浜の町のこと、陶石のこと、海のこと、山のこと、そこにいる人びとのことを考え、まさに高浜に浸った3日間だった。特にデザイナー、製作のプロの方々とのリデザインワークショップと民泊という体験は、何物にも代え難い貴重な体験であった。
   
  ■グループワーク
   
  私はグループB「プロダクトデザイン・ものづくり」に所属した。天草高浜出身という若杉浩一隊長のもと、JR九州の稲森氏、スギダラの女性陣・佐藤氏、溝口氏、崎田氏、そして高浜地域人である森商事の小野氏という豪勢な顔揃えの元、あのZIKIグループが結成された。  初め、テーブルについて話し合いを進めるも、なかなか「プロダクトデザイン・ものづくり」への糸口が見いだせずにいた。高浜のまちのおおらかさ、暖かく受け入れてくれるまちの人びとや気候風土、日本、世界を席巻した天草陶石、その豊かな自然と土壌に恵まれながらも、今現在の状況への問題点へと話しが進んでいった。天草から九州の地図をみていくと、天草地域の広大さに改めて気がつく。海に隔てられた島々から成ることもそうだが、天草地域そのものは熊本であって、実はそうでないのだと思い知った。熊本出身の私は、もちろん天草も自分のふるさとのように感じていたのだが、天草のその地形だけを振り返っても、平野部とはまったく異なるものである。辺境にありながら、そこは長崎・島原に隣接し、鹿児島へも海を通すと近いのだ。そして何より、アジアへとひらける西海は、なんとも大きな物語を持っているのだと改めて気づいた。話し合いのなかで、天草に橋ができたからこそ、かえって陸地を通してしか天草を観ることができず、天草を辺境の地に至らしめた、という意見に皆納得していた。それは島に、海に住まないものの意見では在るが、純粋に高浜の砂浜と海に魅了させられたからこそ出た意見であった。
   
  その後、高浜のまちに出て行った。天草陶石の集石場と、のぼり窯があった皿山、狼煙台跡地など、前日のトランセクトウォークでまわれなかったところへと、高浜の中原氏に連れて行ってもらった。高浜の歴史をたどるように現地を観ていくと、おもしろいアイディア・意見が出てきた。その道中、あのZIKI ZIKIという言葉が生まれた・・・ 始めに皿山ののぼり窯と集石場を見学した直後、あの窯をワインセラーにしたら良いのでは、バーも併設すれば良いのでは、というアイディアがでた。
   
  そのとき、あのスギダラ恒例の駄洒落、「磁器(時期)尚早、高浜ワイン」が、若杉隊長から飛び出した。これがすべての始まりだった・・・ 今の高浜ぶどうで製造されたワインが、まだまだずっぱく、ビネガーに近い、という話しを前日聴いていたから、これからどんどん良くなるワイン、磁器製の瓶につめられたそれは、飲んでみないとわからない、今後の発展へ投資していくような商品を、という我々ZIKI ZIKIチームの大きなコンセプトができた。  それから、磁器、時期、次期と、どんどんZIKI ZIKIフレーズが飛び出し、ついには「ZIKI ZIKIバンバン」、「ZIKI 美白」、「ZIKI ZIKIデザインコンペ」、「ZIKIゅそう」、「なべZIKI」などなど、とどまることなく、ひたすらZIKI駄洒落の商品を生み出していった。移動中の車内は、常に笑いが絶えなかった。  これらのZIKI ZIKIブランドは、そもそも高浜ぶどうのワインに取り組む、高浜の人びとの努力があったからこそ出てきたものであったと思う。まずは楽しんで、面白いことをどんどんみんなで出し合うことが、まちづくりの大きな一歩、きっかけとなるのである。プロダクトデザイン、ものづくりを考えて行く際に、ちょっと肩をはってしまいそうなところを、気軽に楽しく、多くの人に参加してもらうことが、地域をリデザインしていく際に重要なことだと教わった。  高浜フィールドワーク2011が終了してしばらくたっても、ZIKI ZIKIというフレーズが口癖になってしまっていた。それほどこのデザインワークショップの体験は、私にとってとても大きな存在となった。
   
  ■民泊
   
  高浜での貴重な体験のもう一つは民泊だった。私は同研究室のケ瓊さんと共に、上田家の分家であり、現在の旧上田家住宅の管理もされている田崎義克さん、茂子さんご夫妻の暮らす田崎家に招き入れていただいた。初め、御座敷に案内されお茶とお茶菓子を出していただいたときは、これでは完全なお客様になってしまう!やばい!と冷や汗をかいていた。私自身、過去に見ず知らずのお宅に民泊するという経験はなく、民泊がどのようなものなのか様子をさぐりながら臨んでいた。今回のフィールドワークでは、地元の人との密な交流と、天草の生活を体験するということに重きが置かれていると解釈していたので、このお客様な状態では疎遠な交流に留まってしまうと思ったからだ。しかしこの懸念は、夕食の支度をお手伝いすることですぐに解決したのであった。その日の夕食も、2日間の朝食も、茂子さんお手製のご飯はどれも絶品で、ばくばくと調子にのっていただいてしまった。なかでも手作りだというゆず胡椒やジャムは、自然の味そのもので感激した。  夜には、田崎家に保管されている書物や写真などの、上田陶石や上田家に関する貴重な資料をたくさん見せていただいた。義克さんから聞かせていただいた上田陶石の歴史は壮大なもので、2日間の夜だけでは時間が足りなかったのは言うまでもない。
   
  交流を深めていくなかで、今回のワークショップへの期待の気持ちの一方で、どんなプログラムで動いているのか情報がわからない、参加してもいいものなのか、という言葉を聞いた。旧上田家の管理をされている義克さん、ボランティアガイドをされている茂子さんだから、というわけではなく、高浜の町の方々の多くが思っているのではないかという気がした。例えば、ワークショップでまちを歩いていると、多くの高浜の方にお話を聞くことができた。最終の発表会にはたくさんの高浜の方がいらっしゃっていた。今回、ワークショップ自体へ参加していただいた高浜の方は一部であったように思う。それ以上に多くの高浜の方に関わっていただき、お世話になっていたことはひしひしと実感しているが、次は高浜の方々と共にワークショップを展開できると、さらに実のなるフィールドワークになるのではないかと感じた。
   
  何よりも、義克お父さま、茂子お母さまには大変お世話になりました。とても温かく有意義な時間を過ごさせていただきました。娘が帰省したときのようだとお話しいただいたときは大変うれしかったです。次はもっとご一緒にお話しできる時間ができるとうれしいです。また、お邪魔させていただきたいです。本当にありがとうございました。
   
  ■まとめ
   
  夏真っ盛りの素晴らしい時季に、海のまち高浜を訪れることをとても何週間も前から楽しみにしていた。そこで得られた経験は、何事にも代えられない、高浜の海のようなキラキラとしたものとなった。 高浜のまちをじっくりと歩き、天草陶石や高浜ブドウなど、ひとつひとつの文化資源を取り上げて、それについて論考を重ねていく時間は、とても贅沢なものであった。心身ともに健やかになるような、海のまちなみと人々の触れ合いを体験することができた。 デザインの現場で働いている専門家の方々、スギダラの方々の強烈な存在感と創造力には圧倒された。そのうえ、デザインしていく過程の面白いこと。いつも笑いが絶えず、冗談が飛び交うやりとりには、思わず私も前のめりになった。少しでもあの雰囲気の中に参入できたことは、かけがえのない経験となった。 フィールドワークについての不足ごとを強いて言うなれば、自由時間があまりなかったことが残念だ。もっとゆっくりと民泊先のご家庭との交流も深めたかったし、各々民泊先にお世話になっている学生たちは、皆自分たちの民泊先を他の学生に紹介したかっただろう。この短期間の時間が、受け入れる側にも入りこむ側にも、負担を感じないぐらいの丁度よい期間だったのかも知れない。けれども、あの高浜のまちと人々のおおらかさをゆるゆると満喫するプログラムができないかと期待してしまう・・  天草、高浜での体験は、何においても「ひと」であった。フィールドワークや民泊を受け入れてくれる人、それを支える人、文化資源を起こした人、それを継承した人、そこに介在する人、などなど・・・たくさんのマンパワーを重ねると、まちは生き生きとしたものになるのだろう。その大きなエネルギーをやさしく受容する「場」が、高浜にはしっかりとあるのだと感じた。  また、何度でも、高浜のまちに行きたいと思います。そう感じさせていただきました多くの皆様に、心から感謝いたします。
   
  ●<きたおか・けいこ> 九州大学大学院芸術工学府 藤原惠洋研究室 修士課程2年
   
   
 
  高浜フィールドワークを終えて
  文/ケ 瓊
   
  「天草の西高浜のしろき磯江蘇省より秋風ぞ吹く」  与謝野 晶子
   
  昭和7年8月14・15日、『五足の靴』の足跡を再び旅した与謝野鉄幹が妻晶子を伴って上田家に宿泊しました。これは、その時与謝野晶子の書き残した歌です。私は中国の江蘇省で4年間、大学生活をすごしましたので、この歌を聞いて、とても懐かしい感情がわいてきました。高浜にははじめて訪れましたが、道中あちこちで親しみをおぼえました。   福岡からバスに揺られて5時間後、天草の高浜に着きました。高浜はとても遠いところだと思いました。けれども騒々しい都市とは違う、きれいな水が流れ、緑の山が背景となった、静かな町並みを見ると、心が落ち着きました。
   
  今回のフィールドワークでは高浜の魅力的なところを発見しました。たくさん素敵な人々に出会いました。学生や社会人、地元の方々と一緒に町を歩いて、歴史を知ったり、高浜のみなさんと交流したり、濃密な体験をさせていただきました。海、山、磁器、陶石、農業、漁業、林業、木造建造物、石垣・・・この土地にはそんな宝物がある、という印象を受けました。   そして、一番印象深かったのは、民泊体験です。2泊3日という短い間でしたが、民泊を受け入れていただいた田崎さんのお宅にお邪魔しました。 田崎さんにはお子さんが4人いますが、仕事のために全員高浜を出ていて、現在田崎さんご夫婦だけが高浜に残って暮らしています。平日は二人ともボランティアとして上田資料館でガイドをされています。高浜にとても愛情を持っておられます。 私は田崎さんご夫婦から、天草陶石と上田陶石及び高浜焼の歴史を教えていただきました。天草陶石の特徴は、鉄分を含まない良質の白い陶石です。白く透き通るような高級な有田焼は天草陶石から生まれます。その天草陶石を採掘していたのがこの上田家です。上田家は代々庄屋でしたが、小さな漁村であった高浜の暮らしは決して楽なものではなかったようです。
   
  1762年、上田家六代目の伝五右衛門はそんな貧しい高浜の村民の暮らしを豊かにするために良質の陶石を採掘し陶工を招き高浜焼を開きます。天草陶磁器のルーツとされる高浜焼は、"白く・薄く・透明な"が特長で、江戸時代には長崎から海外に輸出されていました。 田崎さんのお宅では、たくさんおいしい料理をいただきました。田崎さんは、お味噌やゆずこしょう,イチゴジャム、ハチミツ、パン、かぼちゃなど、その他様々なものを手作りしています。こういう自給自足の生活システムは高浜の魅力的なところではないでしょうか。
   
  もう一つ印象深いところは、高浜の朝市です。2日目の朝、朝市があるということで、7時には広場に行きました。そこにはジャガイモ、タマネギ、マンゴー、魚などがありました。私は千円で二つマンゴーを買って、プレゼントとして二つマンゴーをもらいました。(笑)高浜の人々は気前がいいですね。   この3日間は、貴重な経験をさせていただきました。お世話になった地元の皆さん、参加者の皆さん、藤原先生、心よりありがとうございます。
   
  ●<○・○> 九州大学大学院芸術工学府 藤原惠洋研究室修士1年
   
   
 
  天草のお父さん、お母さんへ
  平川知佳
   
  高浜フィールドワークにおいて、一番印象的であったのは、民泊体験です。2泊3日という間でしたが、振り返ると、高浜の小さな町の暮らしの中に、やさしく編み込んでもらった、そんな気持ちがしています。民泊先のご家庭は、わたしたちを、お客さんというより、まるでほんとうの子供たちのような形で、あたたかく受け入れてくださいました。ご飯をご一緒したり、家事のお手伝いをしたり、他愛ないお話をする中で、自然と、ご夫妻のことを、「お父さん」「お母さん」と呼んでいた自分に気がつきました。この夏、わたしには、天草の地に、お父さんとお母さんができました。
   
  私の住む町久留米に帰ってからも、とても暑い日々、ふと入道雲を見上げながら、高浜での日々のことを思い出しています。2泊3日、お父さんとお母さんのご好意に甘え、まったく気の利かない娘で、すみませんでした。でも、たくさんの優しさに触れたことから、私も、人に対して優しくあろう、親切になろうと心がける、心がけようとする毎日です。こうやって、優しさの連鎖で、世の中が回っていったらすてきなのに、なんて思います。
   
  お母さんの手作り料理、お父さんが釣ってきた鰹のたたき、あったかいお風呂、お風呂上がりの冷たい麦茶、寝ている間に虫にさされちゃいけないからねって用意してくれた蚊取り線香、どれをとってみても、ひとつひとつにそっとした愛情がありました。
   
  そしてなんと言っても、驚いたのは、扉の向こうの別世界、おうちの中でのカラオケボックス体験です。お父さんは、お仕事をリタイアされてから、ご趣味で、おうちの中に本格的なカラオケボックスを造り上げられたのです。この日は、ご近所のお友達ご夫婦が、遊びに来ていらっしゃいました。陶酔と夢を刺激するインテリア、ミラーボールが回り、歌声と笑い声が響き合う不思議な空間は、まるで、高浜の竜宮城でした。ここにくるまで、カラオケのマイクだけは避けて生きてきたわたしであったのですが、汗をかきながら、一曲歌わせていただきました。そして、最後に、お父さんが、一曲歌ってくださいました。あとから、お母さんに、「お父さんが歌ったのは久しぶりだよ」「よっぽど楽しかったんだろうね」と言われ、ぐっと距離が近くなったような、胸があたたまる気持ちがしました。
   
  お父さんやお母さんと交わした何気ない会話も、とても心に残っています。その中においては、短い滞在の間ではわからないような、高浜の現実的な一面を感じることもありました。高浜には、若者が働く場所が少なく、若者は、職を求めて、本渡や県外に、出て行かざるを得ないというお話。もっとも、広いお家に2人きりで暮らしていらっしゃる様子が、そういった現実を静かに語っているような気がしました。
   
  一番心に残る情景は、2日目、漁港でバーベキューがあった夜のこと。「もう夜遅いから、帰ろうか」お父さんの優しい呼びかけで、わたしたちは、盛り上がる会場を抜け出し、一足先に帰路につきました。その帰り道に見上げた夜空の美しさが忘れられません。プラネタリウムみたいな満天の星空、流れ星が一つ流れていきました。今も、その星空と、そして、お父さんの後ろ姿が、まぶたの裏に、鮮明に焼き付いています。夜ってこんなに暗かったんだなあと思いながら、前を見ると、バイクを押しながら先を歩く、お父さんの小さな背中。その背中に、不思議な懐かしさを感じました。遠い昔、夜更かしをしたお祭りの日の帰り道がこんな感じだったかしら、広場から遠ざかる寂しさと夜道を歩く心細さ、おうちに帰れる安心感、子供のころに戻ったような、そんな感覚がしました。
   
  高浜には、子供のころに返る、純粋な気持ちを呼び起こすスイッチのようなものが隠れているのではないでしょうか。あちこちに、かつて高浜を離れていった若者たちが、置いていった夢や青春のかけらが落ちているような気がします。そのかけらたちが、わたしたちの心に、懐かしさや純粋な気持ちを呼び起こすように働きかけてくれているのかもしれません。
   
  さて今日も、授業を受けているとき、電車で帰るとき、お父さんやお母さんのことを考えました。今頃何をしていらっしゃるかしら?お父さんは海に出ていらっしゃるかしら?お母さんはおいしいお料理をつくっていらっしゃるかしら?高浜の町は今日も穏やかなんだろうな、高浜の海は今日も美しいんだろうな…今度は、いっそ日焼けなど気にしないで、ノースリーブのワンピースを着て、麦藁帽子をかぶったりして歩いてみたい、いつか、大切な人と?
   
  お母さんの言葉が浮かびます。「今度は、恋人を連れていらっしゃい」
   
  ●<ひらかわ・ちか> 九州大学大学院芸術工学研究院藤原研究室科目等履修生
   
   
   
   
 
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