連載
  スギダラ前夜・・・スギダラ設立までの歩み
文/ 南雲勝志
   
 

今月号の特集、秦野での木匠塾との戦いを来月に控え、少しスギダラの基本と歴史をおさらいしてみようと思った。そもそも杉ダラがいつ始まったかはっきり覚えていない。多分富小の課外授業の後だったような・・・いつも解らなくなる。一度はっきりさせた方が良いと思っていたが、月刊杉の記事を読んでいると実は千代田さんがバッチリ書いてくれているではないか。月刊杉29号、この号は年末でチヨちゃんに、今までのスギダラを振り返って貰っている。「スギダラ歴史年表」。またスギダラとは、としては「「ウッディレター」に掲載された記事」は非常に良くまとめられている。近いところでは、月刊杉46号特集 祝!スギダラ5周年と会員1,000人達成!「スギダラ倶楽部 会員1000人の歩み」これもとても興味深い記事であった。正解はスギダラの発足は2004年の6月1日。月刊杉は2005年7月に創刊。ということだ。さすが広報宣伝部長。秦野のトップバッターはやっぱりチヨちゃんだ。

しかし、スギダラ発足前はどうのようなプロセスを経てきたか? ということもグチャグチャになっている。だがこれも年表を見ると結構細かく書いてある。・・・せっかくなので千代田さんの設立以前の箇所を記事をもう一度引用させて貰いながら振り返って見る。
★は千代田さんの引用。☆はナグモが追加。→キャプションもナグモが記入。

★2000年5月 
南雲勝志 宮崎日向でで杉の魅力に触れる。→正確には出会っただけ、まだどうにも出来なかった。

★2001年1月 
南雲勝志 「塩見橋」(宮崎県日向市)竣工。橋の手摺りに地場産木材を使用。塩見橋は2001年度のグッドデザイン賞を受賞。 →木の芽会、海野さんとの出会いがあり生まれた。かなりけんか腰。

☆2001年8月 
吉武先生に誘われ、初めての「高千穂秋元ツアー」 →かなりカルチャーショックを受ける。秋元はある意味最先端だとも思った。

★2001年9月 
南雲勝志 内田洋行の主催のデザイン展示会「ON-HOT展」でスギダラファニチャーの元祖「大杉」を発表。若杉浩一とのコラボレーション。 →若ちゃんと初めて一緒にデザインをする。

★2001年11月 
南雲勝志 東京デザイナーズウィーク「椅子展2001」に杉の角材をベルトで縛っただけのスギダラファニチャー「杉子」を発表。 →内藤さんにナグモはデザインを捨てたと言われる。

★2002年10月 
南雲勝志 東京リビングデザインセンターOZONEの展示会「イスコレ商店街」にてスギダラファニチャーの歴史的名作「杉太」を発表。 →隣の展示ブースは若杉さんであった。写真を見るとみんな若いな〜。みえちゃん。

☆2003年3月 
「塩見橋橋詰め広場」
完成! 2003年グッドデザイン賞 新領域部門受賞

★2003年4月  
若杉・千代田 企業向けにスギダラインテリアを仕掛ける。某印刷会社の研修施設に長杉太他「スギダラファニチャー」を納入。 →何だかみんな夢中だった。ちなみにこの頃のメールを見ると「杉だらけ」という言葉はすでに飛び交っていた。

★2003年4月 
内田洋行の教育市場向けのイベント「New Education EXPO」に「スギダラファニチャー」を出展。 高杉太、動杉等の傑作が生まれる。

☆2003年4月 
「GSデザイン会議発足 →篠原修と東大に迎え入れられた内藤廣を2トップとする土木デザインチーム。南雲勝志、若杉浩一も入会。

☆2003年5月 
Confort ドリョークデザイン連載開始 第一回は篠原先生を紹介。 →この頃からウチダラもまちづくりにかなり傾倒して来る。

★2003年8月 
南雲勝志「プロダクトデザインの提思想」展で「すぎっちょん」を発表。 この展示会で現秋田支部長 菅原香織と出会っていたらしい・・・ →そうか、スギダラ設立前だったんだ。まさかあのときの菅原さんが、スギに興味があるなどとはちっともわからなかった。ちなみにこの時川上元美さんを誘い初めて飲み会をする。緊張した。

☆2003年10月
萩原さんが我が家を訪ねてくれた。家とも「第九回 幸福な家」 →ありがとうございました。

☆2003年10月 
「宮崎県日向市に於ける「木の文化のまちづくり」の実践」
が新領域部門で受賞

☆2003年12月 
萬代橋改修工事 デザイン監修開始。

☆2003年12月 
宮崎県都市計画課森山さん、和田さん(日向市から出向中)と木材ワークショップの可能性を探り、都城を訪れるが、まったく相手にされず、ヤケ酒を飲みながら高鍋の忘年会場へ。
→実はこの時の和田さんとの出会いが翌年の富高小課外授業に結びつく。(日向本参照)

★2004年1月 
南雲、若杉で群馬の杉を視察。スギダラツアーの先駆けとなる。

★2004年2月 
某複写機メーカーのショールーム兼オフィスに世界最長のスギダラファニチャー「ギネスギ」を納入。 →千代田さん、一般家具とスギダラ家具の違いを痛感する。

★2004年3月 
高知魚梁瀬杉スギダラツアー」実施。南雲、若杉、長町、中尾の現本部有志で高知魚梁瀬とミロモックル産業を視察。この頃、日本全国スギダラケ倶楽部の発足を現在の本部メンバーで語り合う。 →ミロモックルはスギの防腐処理モックル処理の工場である。日向上崎箸のスギはここで処理した。後に川上木材、海野さん、ミロモックル3社で「宮崎ミロク」を設立。 スギダラホームページは実はこのツアーの直後からスタートする。HPのスギダラとは、や魚梁瀬杉ツアーの文章は一緒に参加した長町さん力作、かなりやりとり市ながら時間をかけた。7年立っても色褪せない。さすが長まっちゃん。今見ると月刊杉のはしりだった。日本全国スギダラケ倶楽部略して杉ダラの正式名称もここで決定したのだった。

☆2004年5月 
デザイングループHappi設立 →残念ながら現在はHP閉鎖。現在はブログのみ。

★2004年6月1日 スギダラ設立
日本全国スギダラケ倶楽部ホームページ開設。会員登録を開始。 →会員なかなか集まらず不安。

・・・スギダラ発足までの道のりはおおよそこんな風であった。宮崎にはかなり影響を受けていることがわかる。ちなみにその直後は・・・

☆2004年7月 
Confort「まちづくりの新しい芽」連載開始 第1回油津ー堀川運河の復元と水辺デザイン篠原修(土木設計家/東京大学大学院教授) →本格まちづくり系記事を連載。ウチダラの想いであった。

☆2004年8月 二度目の高千穂秋元ツアー →この時はスギダラメンバーかなり大勢で訪れる。

★2004年10月
宮崎県日向市立ふれあい富高小学校にて、南雲、若杉、千代田がまちづくり課外授業の講師を勤める。感動の「移動式夢空間」プロジェクト。スギダラの活動を加速させる転機となった歴史的事件。

★2004年10月
スギダラ本部ブログ「スギダラ家の人々」スタート。各地でのイベントレポートを中心にタイムリーな情報発信を開始。

★2004年10月
「デザイン図鑑+ナグモノガタリ」 10月5日発売

★2004年11月
杉コレクション2004 宮崎県日向市にて開催。この時のグランプリ受賞者・狩野さん、即入会。 会員の杉浦さんも見事優秀賞受賞。

・・・はやり宮崎の話題は多い。こうやって見ると、2004年スギダラ設立前後は相当色んなことがあったことがわかる。記憶が交錯してもしょうが無いわけだ。良い機会なので関連して、数年前に別の企画に書いた記事であるが、2005年以前を振り返った文章を紹介したい。

前略・・・せっかくなので今までの自分の概略を5年単位でプチプチ紹介してみようと思う。

1987-1990
忘れもしない1987年、自分で独立して仕事をやることになった。独立というと格好良いけど、単に前の事務所のボスとケンカ別れしただけだったので、状況としては途方に暮れたといった方が正確である。この頃の辛さは話すのも、思い出すのも嫌なくらいだ。
ただ一つ言えることは希望だけはあった。「何とか家族と共に頑張って一人前のデザイナーになるんだ」 等という、今から思えば無謀とも言える、全く根拠のない自信だけはあったのである。しかし、そんな妄想だけで成立するはずもなく、その間の三年間の仕事は苦しく、悲惨なものだった。

1990-1995
捨てる神あれば拾う神もあるという言葉があるように、人づて良い仕事に出会うことが出来た。一つはproject candy という魅力的な家具の仕事、もう一方は皇居周辺や門司港といった公共の、それもかなり良い現場の仕事をすることが出来た。人づても運であるが、そこから5年間、つまり1995年あたりにかけて、僕は人生始まって以来とにかく必死に仕事をした。多分この時期に経験したことは、その後の自分のデザインの元になる部分を形成したように思う。過ぎ去った後ろはだけはわかるけれど、未来に対しては横も前もまったく見えていなかった。でも今与えられた仕事をきちんとこなさなければ二度と良い仕事はないだろう、そんなプレッシャーの中でとにかく必死であった・・・

1995-2000
幸運なことに必死でやった5年間の仕事は一定の評価を得、その後の5年間の発展系へと進んで行くことが出来た。家具でいえばヨーロッパで展示会を開催したり、新しいデザインも次々とやっていった。国内でも一年に4〜5回程度展示会に参加した。(中略)・・・景観の仕事も日本全国アチコチへと巡業していくことになる。
仕事も付き合いも大きく拡大していった。今振り返ると多分この5年間は、あまり悩みもなく順風な時期だったかも知れない。
しかしその5年も後半になってくると、そろそろ次のステップを目指さなければ、と思いながら、次が良く見えなくなっていた時期でもあった。デザインで悩むことも、未来に対し自分のデザインに素直に自信が持てなくなることもしばしばあった。
だんだん展示会からも遠のいた。デザインのためのデザインや、デザイナーが中心の展示会とはほとんど関わらなくなる。マーケティング等というものが全く理解できなくなった。これから目指すデザインとは・・・ いったい?
そろそろ何か今までと違う事を始めなければ・・・そんな時期でもあった。

・・・そして2000年を迎え、日向を訪れることになる。

2000-2005
2000年の春、ある仕事と関わり始めた。それは宮崎県の日向市のまちづくりの仕事である。細かく書くと28,000万字くらいになるので省略するが、(今月末にプロジェクト本が出版されるので興味のある方はぜひ。) ここで今までにない出来事に出会い価値観が生まれる。
一つは杉という素材との出会い、もう一つは人との出会いだ。一般的にはデザイナーは与えられた条件の中でカタチを考え、それを具体化していくことが普通だ。ところが日向というところで、それをはるかに上回る経験をすることになる。同時に次への展望、そしてやらなければ行けない目標というものがうっすらと見えてきた。簡単にいうと、デザインするということはいかに社会にとって役に立つかということだ。ここでいう役に立つとは単に金銭的な利益より、より幸せな社会とか正常な社会にするためにどうするかということである。カタチをデザインするだけでは解決できない多くの命題に出会い、混乱し、迷い、時には突っ走り、感動するという一見不安定ながらも、ドキドキし、確実にこの路線は間違っていないという確信めいたものを感じるようになる。

2000年からの5年間は自分で仕事をするようになって一番変化があり、かつエキサイティングな時期であった。
とにかく動き出す必要がある、コトを起こす必要がある、そう考えて結成したのが、「日本全国スギダラケ倶楽部」である。このいきさつはまた長くなるので省略せざるを獲ないが、「月刊杉」というWEB雑誌の中に書いたことがあるので、興味のある方はこちらを参照してほしい。→(ナグモ少年の杉ものがたり )この「月刊杉」もまた、スギダラ(日本全国スギダラケ倶楽部の略、以下スギダラ)の精神を発進、啓蒙していくために創刊したものである。そしてそれらを一緒に行動したのが、今回の展示会でも一緒に参加する若杉浩一、千代田健一であったのだ。この一見訳のわからない、しかしパワフルな集団は多くの人を巻き込みながら、次第に大きくなっていく。そして全国にネットワークと領域を超えた仲間を形成することになる。
・・・後略

・・・1995年から2000年にかけての悩み、展望、新しい世紀に入ってからの変化を見ると、日向をきっかけに自分の価値観が変わったことは間違いない。それらがスギダラに向けたエネルギーとして発展していく。やはり、2000年はターニングポイントだった。

もう一つ、月刊杉ですごく気になっている記事がある。2007年8月、月刊杉25号、萩原さんの記事「ナグモカツシがめざしているもの」である。申し訳ないと思いながらコメントをしていなかったけど、萩原さんはなぜかボクのことをとてもよく知っていて、この時はそれがかなり当たっているので、恥ずかしかった事と、自分自身に対し直面したくなかった気持ちもあって沈黙していた。ただ、胸が熱くなったことと、とても感謝した事を覚えている。ボクの中の名作である。もっとも2004年は「デザイン図鑑+ナグモノガタリ」の出版があったので年初から月に2回ペースでしょっちゅう会っていたから無理もない。萩原さんによると、当時スギダラ活動をすでに7年になると書いている。ということは今年は2011年だから10年以上になる事になる。いずれにしろ、萩原さんがかなり気持ちを込めて一生懸命書いてくれたことが伝わってきた。しかし次号で誰からも何の反応も無かった事にガッカリしたと書いている。申し訳なかった。皆さんぜひもう一度読んで下さい。

そのなかで、
2004年9月青山のプールアニックで出版記念の展覧会のオープニングパーティーがあった。この時に、ナグモカツシは、スピーチで「これから3つのグループを中心に、活動していきます」とはっきり言った。ひとつが「スギダラ」。ひとつが「happi」。そしてもうひとつは忘れた。なぜか、ぼくは、そのふたつの活動に首をつっこんでいる。

よくぞ覚えていてくれた。3つの活動グループがほぼ時を同時に生まれたのも、この頃がある意味、今までの体制から変化を必要とした時であったのだろう。萩原さんの忘れたもうひとつのグループはは「GSデザイン会議」の事である。土木景観グループと力を合わせて頑張って行こうという決意はかなり持っていたのだ。そして土木学会入会、最近では「エンジニア・アーキテクト協会」に参加するに至る。逆に日本インダストリアル協会は退会する。プロダクトデザインがだんだん遠くなっていく・・・(笑)
Happiの参加展示会は2回。Happi01では、「KATARI-BAR出展。Happi02では若杉さん、藤森さんと組んで無人駅プロジェクト「鉄結」。今思うと、内容はなんだかんだ言ってしごくスギダラ的であった。結局2010年1月Happiは発展的解消、SIDEへと繋がる(今月号長町さんの記事参照)が、ナグモは不参加。だんだん道が狭まっていく。GSとスギダラはどんどんのめり込んで行くが、Happiは最後までボクの中での位置づけがうまく出来なかった。
萩原さんとの本格的な繋がりは19996年11月の「Livin具 Dinin具展 」であったのだが、国内で行った初めてメジャーな場所で展示会でもあり、忘れられない展示会であった。その後ずいぶん多くの展示会でお世話になる。数年以内にまた個展をやりたいなあ〜。南雲勝志のデザインの軌跡。フリーになって24年が経つ、25周年なんて良いね。30周年はもうないかも知れないし。それと、2007年のアートフェスタタキカワのデザイン宣言「ステートメント」の事も触れてくれている。短い文章だったが、自分自身のその時の気持ちと、未来に受かっての意志を精一杯書いたつもりだ。

話がどんどんそれてしまったが、スギダラ設立の背景、そしてスギダラが出来てからの変化を書こうと思っていたのだが、自分を振り返るような展開になってきた。しかし、自分的には、千代田さんの年表や、萩原さんの話を読んで、だんだん解けてきた。自分でも初めてそうだったのか〜、ということが結構あることに歳というか、いい加減さを改めて感じている。だが同時に、2004年杉ダラ設立前後の流れを整理することで何だかすっきりした。今回の記事を書いて良かったと勝手に思っている。でも言っていることや中身はこの10年ほとんど変わっていないのにも驚いた。

まとめにはほど遠いが、スギダラは突然出来たのではなく、10年単位の流れの中で感じ、疑問に思ってきたことを軌道修正するためにどうしても必要だったということだ。そしてスギダラをやってからは明らかに方向が変わったことは事実であり、確信出来る。しかし、いまや設立メンバーの元を離れ大きなうねりとなっていることもまた事実であろう。
今回はこの辺で一端区切り、後編「スギダラ設立以降・・・」をいつか書きたい。

   
   
   
  ● <なぐも・かつし>  デザイナー
ナグモデザイン事務所 代表。新潟県六日町生まれ。
家具や景観プロダクトを中心に活動。最近はひとやまちづくりを通したデザインに奮闘。
著書『デザイン図鑑+ナグモノガタリ』(ラトルズ)など。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部
 
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