連載
  スギダラな一生/第19笑 「経済活動と社会活動」
文/ 若杉浩一
  お金で繋がっているダイナミックな関係と人の価値で繋がっている弱々しいネットワーク
 

最近、「ASHIKARA」シリーズを出したお陰だろうか?色々なところから取材の申し込みや、ヒアリングが多くなった。スギダラを始めた頃は誰も見向きもされなかったが、環境問題が取り沙汰され、また企業がエコロジーや森を守ることに敏感になったせいだろうか?色々なところへ呼ばれたりすることが増えている。しかし何かが違う。
どうも腑に落ちないというか、感覚の違いを感じるのである。第18笑からの関連になるかもしれない、その事について書きたいと思う。

前回の記事で、宮崎県事務所の大山さんに誘われて行った「照葉樹林を守る」という座談会に銀行や証券会社、そして投資ファンドの方々がいらっしゃっていた話をした。想像していたメンバーの違いにビックリしたのだ。そして、つい最近また別の座談会というか研究会に誘われ出席したのだが、これがまた、そのようなファンド系の方々が多くいらっしゃったのだ。これにも、またまたビックリ。

そして、今後企業が森を守る事、そして地域を支援する事が世の中の周知の事実になること、そしてその事で不動産や新しい投資対象の開発、また企業価値が上がると言う事のようだ。そして、どの地域と、どんな形で手を組み効果を生んで行くかのマッチングですら大きなビジネスになるという。たしかに、地域にそして森に企業の力や資金がおりてくる事はありがたい。何にも増して人も金も不足している地域や森にとって資金だけでも存在すると言う事は大きな手助けになるであろう。

しかしだ、それだけだろうか。必要なのはお金だけではないのである。かつて、いくつもの補助金があり、そこで生まれる地域産業振興を沢山垣間みてきた。その度にデザイナーの作品が生まれ洒落たイベントにのり成功したかに見えた。しかし一方で、それは経済活動も起らず、地域には無縁で、関わった人たちが、やった事だけが意味となり、やがて消えて行くのを沢山見た。そんなことが繰り返されている。本当にそれでいいのだろうか?本当に意味があるとすれば、お互いのリスクをしょってでも永く続けるべきではないか?しかし金の切れ目は縁の切れ目になるのだ。決してそれが悪いと言うつもりはない。何かが腑に落ちないと思うのである。
そう、そもそもビジネスだけでは解決できない何かが横たわっているのだ。

窓山デザイン会議の生み出したもの、僕は、「人を生む、そしてそれが繋がること」に意味があったと思うのである。勿論、幾許かの資金は調達したが、殆ど参加者や関わったメンバーが負担した。しかも作業や段取りも含めメンバーが成し遂げたのである。何が残ったか?物理的には何も残ってはいないが、人の気持ちや繋がりそして次へのテーマが残った。解決は愚か、さらに問題提起が膨らんだ。
そんなものに、お金を出すのか?しかも未来の計画が書けるのだろうか?
仮に、未来を描いたとしても嘘になってしまう。だって常に変化していくからだ。そんな得体の知れない、価値が見えないモノにはお金は出ない。見えないものにはお金はついてこない。
しかしこの活動は色々なところへ繋がり形や、価値に繋がる事を、そして未来へつながる事を確信している、なぜなら皆がそう思っているからだ。時間がかかる。意味を重ねていかなければならない。

スギは100年後の価値として未来に向けて先人達が投資をしてきた財産である。先人達は利益が見えないどころか、苦労ばっかり。しかし未来の価値に思いを馳せた。しかし我々はその時間を待つ事が出来なくなってしまった。今に生きてしまっているのである。
先日ある座談会で岡山県西粟倉村の村長さん、道上村長のお話を聞く機会があった。(西粟倉村のHP→http://ns.vill.nishiawakura.okayama.jp/index.html
この村は自然のブナ林そして100年生が林立する美しい杉林を保有し山や森をきちんと守って来た村である。しかし近来スギの市場は荒れ、経営として成り立たなくなった。これから価値を生むべき50年生クラスを守れない山林が増えて来たのだった。山林の保護や育成はまず、たくさんの山林の保有者を取りまとめる事が重要になる。バラバラで保有者が今何処にいるのかも解らないケースが沢山ある。窓山だってそうだった。それを全体として守って行かなければならない。これは一個人ではなんともならない。未来にために皆で協力して行かなければならない。その上に、結果は次世代だ、そう簡単ではない。

この村は、市町村合併も断り、未来の財産のために村が立ち上がり、協同管理体制をとっている。それだけではない。村の特性を生かし様々な村おこしやイベント、季節ごとのツアーを企画している。ホームページを見ただけでも、その熱気は伝わってくる。ここの魅力は何なのか?確かに村は美しい。そして自然も、杉も、しかし最も価値をもっているのは、実はここの人であり、それを引っ張って来た村長そのものではないだろうか。
窓山でも地元の方が仰っていた。「ここの何がいいんだか、さっぱりわかんねえ、こんなとこさ、いっぱいあるべ」
そうなのだ、森も山も自然も美しいところは沢山ある。しかし、美しい人々はなかなか、いない。人がいて意味が生まれるのだ。それが繋がることによってもっと意味が生まれる。そして時間をかけ、まちが魅力を生み、経済へ繋がる。結局最後に経済なのである。最初から経済を生むには、見えるモノや皆が価値と認める具体的な代物しかありえない、上澄なのである。我々は上澄ばかり追っかけてきたのだ。そんな甘い世界だけではない。酸いも甘いも苦いも辛いも(唐芋)あるのだ。この、人の価値で繋がっている弱々しいネットワークと、お金(経済)で繋がっているダイナミックな関係はそう簡単に一緒になれない。へたになったとするとお互いに崩壊する。

その間が重要なのだ、「1か0かではない、まん中0.5ぐらい」がないものか?前例がないから、なかなか難しい。きっと新しいものづくりが潜んでいるからなのだろう。もうこうなりゃ、組んず解れつするしかない。お互いにまみれてしまうしかない。そのあかつきに何かが生まれるような気がしてならない。森を守ることと、経済、地域と企業この間にあるもの、それはお金ではなく、きっと人(仲間)であるような気がする。そして人が生み出す知恵、ものづくり、仕組み、ネットワークそれこそが新しいモノを生み出す根源のような気がしてならない。

地域には違いがあり、人にはもっと違いがある、同じ手は中々使えない、この間にある人(仲間)づくりは忍耐がいるし時間もかかる。
大量のお金は必要ない。自動的に出来上がるとダメなのである。その根底にある相互理解と協力そして愛と時間が必要。何だか恋愛みたいである。

窓山デザイン会議で篠原修先生がこう仰っていた。「理屈や意味より、情感を共有できるかどうかの方が大切だ」そうだ、そのことだ。腑に落ちないこと、それは、情感を感じれなかったんだと気づいた。
我々は気づかないうちに、規模や人の数や大きさに対して成功イメージをついつい持ってしまう。しかしそこに、情感の共有が生まれないことには意味も何もあったもんじゃない。
お金や規模ではない、モノやコト、それが「スギダラ」が目指した事だった。しかしそこには感動の連鎖と素敵な未来そして素晴らしい仲間がいる。だからやめられないのだ。今週も来週もそして来年もスギスギとコトが起って行く。
最近我々の間では杉の歌が流行っている。
9月10月11月と私の人生スギダラケ〜♪
後でどんなになろうとも夢もスギダラケ〜♪

一度西粟倉村にも行かねばなるまい、ねえ南雲さん。

   
   
 
   
  杉コレ特集にちなんで、おまけ
   
  ・・・。何なんでしょうか。   杉コレ審査会場、前日の準備の最中。
   
  杉コレ本審査の前夜。「9月10月11月と私の人生スギダラケ〜♪ 」はここで生まれた。   審査当日。WCでちゃんと司会もしました。
   
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 テクニカルデザインセンターに所属するが、 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない
活動を行う。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長
   
 
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