2004年春、2年前に実施し好評だったふれあい冨高小学校のまちづくり課外授業を、再度取り組んでみてはという話がどこからともなく湧いてきた。2年前(2002年、初回)は、日向市駅周辺地区のまちづくりコーディネーター的役割を果たしていただいている東京大学の篠原修教授、内藤廣教授をメインの講師に招き、まちの模型製作を通した授業だった。
その2回目の講師として、ぼくの頭のなかに浮かんだのは、南雲勝志さんだった。あの人なら、きっと子ども達といい関係を築ける。楽しい、夢のある、想像性を育む授業になるのではないか、適任ではないかと思った。
その前の年の暮れ(2003年12月)、当時、ぼくは、日向市から宮崎県に出向し、研修職員として県に身をおいていた。上司だった森山さんと都城に行く機会があり、その時、南雲さんも一緒だった。日向で塩見橋やまちなかのファニチャーをデザインされている方ということは勿論知っていたし、一方的にお顔を拝見したことも何度かあったが、言葉を交わしたのはこの日が最初だった。どんな話をしたかはよく覚えてない。宮崎〜都城〜なぜか高鍋までの電車の道中、森山さんと南雲さんが話されていて、たまに相槌をうつように、南雲さんがぼくの顔を見る。こんな程度の会話というか、やりとりだったような気がする。
講師は南雲さんがいいと直感したのは、この日受けた、いわば第一印象である。デザイナーという横文字にひかれた訳ではない。日向のまちづくりに関わりがある人という条件は根底にあったが、それより、ぼくが南雲さんしか考えられないと思ったのは、人間性、人をひきつける魅力みたいなものだ。そんな経緯があって、南雲さんに講師を依頼、打診した。
南雲さんは、篠原先生、内藤先生に少し気を遣いながら、2つの条件をつけて了解してくれた。ひとつは、やるからには、子どもたちと向き合える時間を十分にとってほしい。1回とかの授業ではダメだと。それと、91名の子ども達を自分ひとりでは限界がある。信頼できる仲間がいるから、その仲間と一緒にやりたいと。
すぐ南雲さんから、仲間二人のプロフィールが届いた。なんとひとりは、フルフェイスのヘルメットをかぶっていて、顔はわからないのである。少し面食らいながらも、何だかとてもわくわくするような気持ちになったことをよく覚えている。
南雲さん、そして内田洋行のデザイナー、若杉浩一さんとフルフェイス素顔の千代田健一さん、この3講師のキャラクター、人柄は、すぐに子ども達を魅了した。外部から来た先生というもの珍しさではない。デザイナーとして彼らの仕事が、超一流だということを知っている訳でもない。南雲さんたちは子どもを信じる、子どもとともに考える、子どもとともに汗をかく、子どもを裏切らない、そんなことを確実にやったにすぎない。純粋な12歳の子どもたちには、よく見えるに違いない。インチキな大人でないことが。これは、ぼくにとって、とてもうれしかったし、励みになった。
担任の先生方、川崎先生(1組)、江藤先生(2組)、黒木先生(3組)の情熱、山本校長先生の全面的支援、そして、3名の講師陣とのスクラムも素晴らしかった。毎回授業が終わったあと、夜遅くまで議論を交わし、信頼関係も強固なものになった。双方、そこまでやらないと気がすまないところがあった。また、子どもたちは、海野さん、藤永さんら日向木の芽会をはじめとする多くの側面で支えてくれた大人たちがいて、はじめて自分たちの夢を実現できたということをきちんと理解し、感謝をことばで表していた。先生というのは、子ども達がゆらがないように、核となるところだけをしっかり伝えていく、それで十分なのかもしれない。
子ども達のまちに対する想いや夢は、とても純粋で、ストレートだった。まちづくりは、大人だけの世界ではない。仮に大人が舵を操っているなら、将来を担う子どもたちへ桟橋を架けるのは、最低限の義務だろう。その桟橋は、将来のまちを想像でき、夢が語りあえる場、また人が集える場でなければならない。新しくできる日向市駅舎は、まさにそれにふさわしい場だ。
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