一月杉話

「筒石」

文/ 武田光史

 

 

 
 The Rolling Stonesには何の責任もないが、いつまでもツルピカであり続けるものに対する日本人の偏重(変調)は、何時から始まったのだろう。彼らの、肉体的経年変化の激しさは別として……。

 新潟県の糸魚川の北に、筒石という漁村がある。北陸本線のトンネルの中に駅がある町だ。暗くて水の滴る長い長い階段を、列車を降りてしまったことを後悔しながら上りきると、渓谷の傍の小さな日だまりのような出口に至る。1kmほどの山道を海岸まで下った先の、線状の土地に集落がある。山が海面をのぞき込むように背後に迫り、うっかりすると筒石は海に落ちそうだ。幅員2〜3mの緩くカーブした一本道の両側に、キラキラ光る釉薬をかけた瓦屋根の、木造三階建住宅が隙間なく建ち並んでいる。風で瓦が飛ばされないようにするためだろうか、漁網のようなものを屋根に掛けてある家もある。既存不適格の建築群と言っても良い。集落そのものが一軒の、木で出来た、大きな家のようでもある。火災が起これば、ひとたまりもないので、住民皆で運命共同体のこの集落を守り抜いてきた。家々の杉板の外壁は、日本海の酷薄な風雪に長年洗われ、銀鼠に変色し、硬質部が浮き上がった彫りの深い表情を見せる。目でさわってみる。それから、そっと指でさわる。注意深くさわらないと、指先が切れそうなほど、エッジが立っているのだ。何処となく、けなげな風情でもある。人と脆い杉が守ってきたこの集落を訪れる度に、僕はその美しさに打たれる。お互い脆いからこそ、守れたのかもしれない、とも思う。

 古いことと、汚いことは同義語ではない。でも、そう思っている人が驚くほど多いことも事実だ。本格的に古びてしまう前の、みすぼらしくて時代遅れの時間を、どう生き延びるかも、たしかに難しい。メンテナンスが必要なのに、こらえきれずに、換えたり、捨てたりしたくなることも、充分理解できる。その点では「あたらしものずき」の僕も、例外ではない。ちょっと飛躍しすぎるけれど、公共の場のメンテナンス・フリーという幻想を抱く役所にも、節税を声高に訴える市民にも同じ罪がある。その結果どこへ出かけても、デジャヴュがクローンのように繰り返されることになる。

 経年変化の美をことさら礼賛する必要はない。どちらかといえばツルピカの方が、僕は好きなくらいだ。それでも、僕が前者に肩入れしたくなるのは、今のところそっちの分が悪そうだからである。脆いからこそ、さまざまなことを伝えてくれる杉の言葉に、時折耳を澄ましてみよう、と思う。

 
 

 
 


 

 

 

<たけだ・こうじ> 建築家

 

 

  

 

   
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