特集 デザインサーベイから見える風景
  手考足思・建築探偵・路上観察・世間再生そして小さな物語の聞き手として(2)
文/写真  藤原惠洋
〜徹頭徹尾フィールドワークから創造的ワークショップへ〜  
 
 
  3. 路上観察
   
   博士課程の院生も東大の建築学科同窓会「木葉会」名簿に記載されるが、5年目、6年目と居続ければ、在籍学生欄の角番、すなわち最長老院生として目立つところに名前が出る。脱却するには博士論文を仕上げるしかない。
   
   明治以降の建築と都市の近代化過程を包括的に調査研究していたが、同時に複数テーマを動かす中、インセンティブを与えねばならない。私の牛歩ぶりに業を煮やした村松先生はすでに東大を御退官され、藤森クンにまかせたよ、と笑われた。
   
   ままよ、近代建築研究と言えばもっぱら西洋館やモダニズムへ傾倒するばかりであったが、当時まだ社会的にも評価の観点が発展途上、歴史研究の機運も十分には育っていなかった近代以降の和風建築に的を絞り、あえて堂宮(神社や寺院)系意匠の成立と展開に関するモノグラフをまとめてみたいと思った。幕末明治以降の日本にとって近代化とは西洋化そのものであったが、明治20年代ともなると、独自の憲法を発布する準備や帝国議会・日本銀行・東京駅といった国家的施設の建設が社会的テーマとなっていく。驚くなかれ、海外からの建築家たちが渡来しては勝手な提案を施すが、その中にはドイツから招聘された有名建築家エンデとベックマン両者による東京駅のデザイン提案も含まれていた。豪華なバロック風の洋風建築の提案もさることながら、同時に日光東照宮と見紛うばかりの和風デザインの提案も周到に用意されている。鹿鳴館を打ち立て欧化政策を牽引した元勲井上馨たちは外国人の表層的な日本理解を嫌ったが、明治半ばが洋風だけではない和風を必要とした揺らぎぶりに私は着目した。
   
   この時代に意外な和風建築が登場している。明治天皇の明治宮殿(明治21年竣工)を皮切りに平安神宮(旧内国勧業博覧会パビリオン 明治28年竣工)、日本勧業銀行(明治30年竣工)、奈良県庁(明治28年)、奈良県物産陳列所(明治35年竣工)、奈良ホテル(明治42年竣工)、明治専門学校(明治42年竣工)、等、相次いで和風意匠で建てられている。社会的な波及効果が広がり、一目瞭然の和風様式とでも呼称してよいほどの機運が盛り上がっている。
   一方、伝統的と言われる伊勢神宮の式年遷宮も江戸時代の踏襲といいながら実際には飾り金具を増補し新たな意匠を加える等の新機軸を見せた。京都の東本願寺大修理や奈良の東大寺大仏殿修理にも新たな技術や材料が補填されている。
   さらに明治以降、新たに神格化された武将や忠臣を祀る神社の創建が続く。戦前の国家神道では社格が厳格に決められたが、別格官幣社が各地に登場する。ちなみに私の高校時代の故郷、熊本県菊池市の菊池神社は南北朝時代に後醍醐天皇の南朝がたを守り続けた菊池一族を祀っており、明治3年に創建された別格官幣社そのもの。
   
   そんな奇縁を感じながらも、私の博士論文執筆はいよいよ深みにはまり停滞することが多かったが、なんとか約7ヶ月をかけて脱稿。イレギュラーな複数回の公聴会を経て、ようやく1988年春、工学博士の学位を授与された。題目は「日本近代建築における和風意匠の歴史的研究」。堂宮系に的を絞りながらも得られた知見の裾野は大きかった。ありがたいことに後進たちの研究が展開し出す中、引用が相次ぎ、はたまた以降の全国都道府県における近代和風建築総合調査の中で数多く参照されることとなった。不覚にも走りながら論考したかのような荒削りの論文だったが、主査となった藤森照信さん、副査の鈴木博之先生、横山正先生、大河直躬先生、香山寿夫先生、5名の審査の先生方が良いところを見つけるように評価していただいた。感無量である。
   
   この審査の際、鈴木先生に「あれっ、最近、講談社現代新書で「上海 疾走する近代都市」というのを出版しなかったっけ」と詰め寄られた。畏まりながらもそれは事実で、博士論文と同時に、中国・上海の都市形成史を新書でまとめており、長引いた執筆期間を経て、運悪く博士論文と同じ頃にのこのこと出版されたのだった。二兎を追ったことが判明すればろくなコトはない。
   
   しかしながら、じつのところ追ったのは三兎以上のものであったかもしれない。なぜなら1986年、藤森さんは芥川賞作家で画家の赤瀬川原平(尾辻克彦)さん、イラストライター・はり紙考現学の南伸坊さん、博物学者・図像学研究者・作家の荒俣宏さん、イラストレーター・明治文化研究家・マンホールの蓋研究家の林丈二さん、編集者・後の筑摩書房社長の松田哲夫さんたちと路上観察学会を創立、バブル経済のあだ花に対抗するかのように路上や界隈の魅力と不思議さを喧伝する時代の寵児を演じていた。舎弟のような立場にあった私もついついこれが楽しくて、藤森さんについてまわる。ついでに目玉の修練もひと一倍研鑽することができたに違いない。ついでに赤瀬川さんや荒俣さんたちとの会話から世間の見方を学ぶ。知らない間に眼力と勘所が育つ。世間への考現学的観察力の視野と深度も募ってくる。いわば見えないものが見えてくる感覚。そうなればしめたもので、行く場所、出会う人、遭遇する出来事、ありとあらゆるものが興味を誘い出す。
   
 
  1986年 東京都目黒区 路上観察学会成立後のフィールドワーク 中央:赤瀬川原平氏 右端:藤森照信氏 隣:松田哲夫氏 左端:林丈二氏
   
   あらためて路上観察とは、偶然や無意識が共振し合って顕在化するシンクロ的関係の「物件」探しゲームとも言え、何気なく路上に隠れた「物件」を発見し観察・観照しあう作業である。
   最年少の私にとって記念すべき「物件」は2度現れた。初回が京浜急行線からの乗換駅のバス会社三社路線を仕分けする色分けのひとつに「赤字は国鉄」を発見。藤森さんにいけるぞ、ホームラン、と褒められた。そして2度目は赤瀬川さんに褒められたもの。愚直すぎるが、台東区の下町の店舗看板に「パン ハタダ」は力強かった。
   
 
 
  左:1985年 京浜急行線浦賀駅 「赤字は国鉄」発見場所 撮影中の後ろ姿は建築探偵中の藤森照信氏
  右:1986年 東京都台東区 藤原初のホームラン(赤瀬川氏認定)物件「パン ハタダ」
   
 
 
  左:1986年 東京都文京区 藤原ホームラン物件「前方後円マンホール蓋in東京大学本郷キャンパス」
  右:1986年 新潟県高柳町 藤原ホームラン物件「ガルガンチュアの村」
   
 
 
  左:1986年 東京都世田谷区桜新町 藤原ホームラン物件「植物は強し 世田谷タイプ」
  右:1986年 東京都港区表参道 藤原ホームラン物件 「可愛い子盆栽にはささやかな旅」  都市のど真ん中、刻々と移ろう悪日射条件にも屈せず、おばあちゃんのベビーカーは可愛い盆栽を少しづつ移動させながら育てていく愛情の深さに脱帽!
 
 
 
  左:1986年 神奈川県横須賀市 藤原ホームラン物件「窓の進化論」(ひとつの壁面に右から赤ちゃん窓→子ども窓→大人窓と成長を刻んでいる)
  右:1986年 東京都品川区 藤原ホームラン物件「日本最小ガードレール 幅32pはなぜ?」
   
   まさに観察そのもので驚くほど歩く。しかしその後の報告のひとときもさらに楽しい。在りし日の杉浦日向子さんが合宿所として利用した目黒雅叙園に差し入れに来たことがある。メンバー全員で布団を敷いた和室の部屋に座り込み、撮影したばかりのリバーサルフィルムを片手に、発表会の準備に熱中していた。部屋に入ってきた杉浦さんも一緒に座り、ようやく始まった上映会を楽しんだ。襖に投影したスライド写真は目黒界隈を歩いた成果で力作揃い。歓喜したり驚いたり意表を突くような「作品」が現れると皆で拍手喝采。深夜まで続くバッカスの饗宴そのものであった。
   路上観察学会の発表会にはほとんどカルト的とも言えるファンが多数集まり、メンバーによるトークショーも大盛況。一躍社会的なブームとなり、全国各地で路上観察が隆盛を極めていく。じつはこの時期に実直なまでの博士論文研究を進め、文化大革命以降の上海にも足繁く通い戦後初の上海都市形成通史とも言える研究書をしたためていったのだ。
   
 
   
  4. 世間再生
   
   建築探偵と路上観察はきわめて個人的なフィールドワーク能力の自己形成過程であった。しかしその頃、私が同時に始めたことがある。それは世間や社会に対してひときわ鍛えた観察力を用いながら一隅を照らすような働きかけをしていくということであった。日頃は地域や地元に隠れてしまった意味や情報や魅力を丁寧にあぶりだせないものか。なにかそこにあるものを嗅ぎ取る、なにかを感受する、そんな力を活かして世間や娑婆の魅力や意味を蘇らせていく。可能ならそれらを価値化していく。さらには価値の組み合わせを構造化して意味づけ、そこから近未来への資源としてまちづくりやむら起こしに生かしていくことができるのではないか、空間や時間の文脈再生へ至る道筋が明瞭に描き出せるのではないかと構想するようになった。まさに温故知新そのものであり、気楽に参加しあいながらこうした動きをたばねていけば、市民参加によるまちづくりの初動期を上手に展開できる。わかりやすく「まちあるきワークショップ」と称すれば、いよいよお役立ちプログラムと見えてくる。これより、私はまちあるきの達人を自他共に認めるところとなり、さまざまなプログラムを生み出すことを至上の楽しみとしていった。
   
   世田谷界隈塾まちあるき。谷中・根津・千駄木の生活を記録する会。おにぎり研究会。都市建築紀行カイエ篇。まちあるきてくと・・・。ある時は若者サークル的であったり、文学的な雰囲気が漂よう研究会仕立てであったり。この頃、自分のまちへ向かう興味関心のみならず、まちあるきの可能性を啓発啓蒙し、手法開発を楽しむ、といった側面からも無数のまちあるきワークショップをかたちづくっていった。
   
   1988年博士学位取得後、私は千葉大学工学部工業意匠学科に助手として赴任する機会に恵まれたが、考えてみると所属先は専門の建築ではない。もっぱらプロダクトデザインの世界へデザイナーやプランナーとしての進路を求める学生養成がミッションであり、教授や助教授の下でデザインサーベイを担当するようにと指示をいただいた。とは言っても、歴史的建造物や町並み保存を下支えしてきたデザインサーベイとは少し異なる。
   
   1960年代終わりの頃から建築設計では、建築予定地の周辺地域の町並みや歴史などを調査し設計に反映させていくことをデザインサーベイと称したが、以降は伝統的な町並みや集落を実証的な態度と方法論で精緻に調査し、建築物の構成要素を記録し、図面や写真などで視覚化、客観化することを意味した。1970年代には得られた知見と要素を建築設計に取り込むことも行われていく。とくに建築家で法政大学で宮脇ゼミを主宰した宮脇檀氏とスタッフによる緻密詳細な図化作業がひとつの範例として大きな影響を与えている。1966年から1973年にかけ、実測調査の記録は、倉敷66,馬篭67,萩68,五箇荘68,琴平69,稗田70,室津71,篠山72,平福73と一途に展開している。
   
   もとより日本にデザインサーベイという言葉が登場するのはそれ以前のことで、国際建築1966年10月号のオレゴン大学による金沢幸町の調査発表と、それに寄せられた以下の伊藤ていじ氏論文を嚆矢とする。
   
 
  「ある地域を観測し、実測またはそれに近い方法で調査し、図面等で視覚化、客観化し、建築やその他のフィジカルな構成要素―生活や慣習、意識や歴史という内的な要素を分析することによって、その地域が持っているシステムの分解と整理を行うという方法。(中略)ある人間集団が生み出す(生み出した―ではなく)自律的な相互関係をできる限り主観的でない方法によって資料化し、系統化されたデーターによって、その内部構造に触れる。それを創造のひとつの母胎の一部とすること。」
   
   一方、私が助手として担当することとなった千葉大学工業意匠学科におけるデザインサーベイはどうであったろうか?事前学習を数回にわたり行う中、旧来の村や地域社会に残された暮らし、産業、流通、なりわい、年中行事、コミュニティ、ものづくりや手仕事、等、器の中の営みそのものを対象とする場合が多かった。それらをテーマ的に仕分けしながらグループでの聞き取り調査を進め、必要なら生活用具や生産道具などをスケッチ、分析していく。建築から見れば、ある規模を有した空間や場から発想していたことが、ここではモノや技から発想していくことがもっぱらであり、方法論の相違に面食らうことも少なくない。図面一つ描くにしても機械製図とも言える精緻な図面をものにしながら、夢見心地のレンダリングがけっこう重要な役割を果たす。
   
   建築から来た私が、いつしかモノの世界に浸かり込んでしまう、自分のデザイン観まで育て直す契機がここにはあり、バウハウス研究をはじめ、建築から考えていたことをモノや技から発想しなおすことを矯正のようにしていった。これは私にとって大きな変革であった。
   
   1988年から92年まで助手をつとめている。デザインを標榜して集った学生との交流は楽しかった。新参にもかかわらずプロダクトデザイン世界で出会った先生方や仲間たちにも快く仲間として迎え入れていただいた。千葉大学はさすがにデザイン系大学の橋頭堡である。入学試験の実技試験にも参加させてもらったが、受験生の潜在的な能力を推し量るのにユニークな問題を複数の先生方が議論と試行錯誤を重ねながら生み出されていく過程は緊張感に溢れていた。学科会議は木曜日の昼食時に開催されるが、お弁当や店屋物、いろいろなランチ形式が会議室に溢れ、先生方の個性が発露するひとときでもあった。スタッフ全員参加の温泉旅行やスポーツ大会など、じつに良く交流を重ねた。しかしながらこの間に得た最大の成果は、ものづくりを主軸としたデザインサーベイを通し、まちやむらの地域社会をものの循環システムやコミュニティ構造を通して分析し、持続可能な地域が営まれていく上で欠かせない課題を知り、それらに対して解決案をデザイン提案するというダイナミズムを修得したことであろう。新潟県、山形県、福島県、秋田県岩手県と東北地方をもっぱら対象地域とし、学生を多い時で40名近く引率し、最大で7泊8日のプログラムを構築し、山村集落や里山、漁村や沿岸をがりがりと歩きながら学生諸君のフィールド参与型調査としてのデザインサーベイを展開していった。
   
   この頃の教え子たちの多くがプロダクト系製造会社でのインハウスデザイナーになっている。ある者は広告代理店や企画会社へプランナーやディレクターとして進出、ある者は銀行系のシンクタンクや都道府県の工芸試験所研究員やデザインセンタースタッフとして活躍している。いずれも同窓会などで顔を合わせると、必ずデザインサーベイの話題になる。意外に野へ入った経験が現在のお洒落な仕事にも反映すると嬉しいことを言ってくれる。このいっかんで当時は東北のほとんどを歩いた。今年起こった東日本大震災の被災地、三陸海岸沿岸部にも入っていったが、あたりには明治期までの津波の記憶や痕跡が残されていたことを思い出す。それだけに親戚を探すような気分で新聞の消息欄を読み、当時知り合った方々の安否を気遣ってみる中、犠牲者が複数名確認された。デザインサーベイを通して、個々の暮らしやなりわい、地域社会の特徴だけでなく、大学や研究室という抽象化された空間に生きる私たちが生身のからだとこころを用いて現場の空気や目に見えないなにかを感じ取るトレーニングをしていたのではないか、と思う。このなんとも言えぬ独特の土地勘嗅覚能力の修得は、その後「ゲニウスロキ(地霊)」と言えばいいだろうと自分なりに説明できるようになったが、この言葉を最初に教えてくれたのが別府の写真家藤田洋三さんである。
   
   
  手考足思・建築探偵・路上観察・世間再生そして小さな物語の聞き手として(3)へつづく
   
   
   
   
  ●<ふじわら・けいよう> 
工学博士・建築史家・まちづくりオルガナイザー・九州大学大学院芸術工学研究院教授・日本全国スギダラ倶楽部北部九州会員
九州大学研究者情報 HP http://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K002281/index.html
E-mail keiyo@design.kyushu-u.ac.jp 
藤原惠洋研究室 http://www.design.kyushu-u.ac.jp/~keiyolab/
ブログ http://keiyo-labo.dreamlog.jp/
   
 
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