特集 デザインサーベイから見える風景
  手考足思・建築探偵・路上観察・世間再生そして小さな物語の聞き手として(1)
文/写真  藤原惠洋
〜徹頭徹尾フィールドワークから創造的ワークショップへ〜  
 
 
  1. 手考足思
   
   これは私の恩師の座右の銘である。そして私の座右の銘ともなっている。若い建築学徒の頃、所属した研究室のミーティングや鞄持ちで行った恩師の講演先で再々聞かされた。元来は陶芸家河井寛次郎(1890?1966)の言葉である。師はそう語りながら、河井への追慕の感情も含め、この言葉のふくよかさを諸処で訴えていた。
   
  河井寛次郎。大正から昭和のはじめの頃、宗教学者でもあった柳宗悦(1889?1961)に従って民芸概念を生み出した一人である。当時のわが国には津々浦々に息づく手仕事のものづくり産地が集積していた。これらの地を営々とフィールドワークしながら見つけ出したもの、そこには今で言うデザインが体現する意図や企てではなく、何万個も同じものを繰り返し制作した職人技が生み出した手仕事の味わいがふんだんに込められていた。そんな民衆的工芸に魅了される中、この概念をいつしか「民芸」という言葉に凝縮させ語り出した頃、本来なら化学者になるところを陶芸家として生まれ変わり、民芸をみずから生み出し世に知らしめた河井は「手考足思」の考え方にも昇華していく。
   
   それから半世紀、座右の銘とした私の恩師は建築史家で東大名誉教授の村松貞次郎(1924?1997)である。グラバー邸の第一発見者、わが国の近代建築史研究を開拓した先哲の一人である。東大退官後は法政大学教授と同時に明治大正昭和の建築を移築した博物館明治村館長を務めた。代表的な著書に岩波新書「大工道具の歴史」があることでも知られる。
   
   1980年代初頭、建築家への夢を潔く捨て去った私は村松門下の博士課程大学院生として生き直そうと研究世界の叢に突入していった。20代後半、遅れて研究の途をめざした私は、建築への愛情は誰よりもあることを自負していたものの、初心の研究者として具体的な研究テーマは背負っておらず、師との議論から着想をあぶりだすことに精一杯だった。それでも大きな観点としては建築や都市の近代化過程を実証的に跡づけたいと意気込んでおり、そんな私を含む梁山泊のような新進の建築学徒たちに河井の言葉は甚大な影響を与えていた。足で思って、手で考える。知識偏重ではなく、からだ全体で論考せよ、実証せよ、という謂いである。
   
   当時、六本木に位置した所属先の研究所は、戦前の東京帝国大学が所謂技術将校養成所として創設した第二工学部を母体としていた。研究所施設は旧第三連隊本部であったが、戦後の平和時代には、新たな研究テーマとして糸川英夫教授率いる宇宙ロケットの開発を推進しており、東京大学生産技術研究所と命名されていた。それゆえ村松研究室の正式な名称は生産技術史研究室、私も抱擁力溢れるこのテーマに惹かれ、村松貞次郎研究室の門を叩いた。ちなみに、村松研究室の前身は関野克研究室。関野先生は関野貞以来、親子二代にわたる建築史家である。静岡市にある登呂遺跡の復元研究で戦後社会を驚かせた。村松先生退官後は藤森照信さんが継承し、弟分の私を建築探偵や路上観察に誘い出し、娑婆との楽しみ方とつきあい方を教えてくれた。その後、東大でも希少種の名物教授となっていったが、尽きないエピソードのいくばくかは本稿の後で触れてみたい。
   
   さらに手考足思、大分県日田市小野地区出身のジャーナリスト筑紫哲也氏の座右の銘でもあった。手と足をはじめ身体全体を使って学び、仕事をする大切さを知り、実践すべきだ、とかねがね揮毫時に選んだ言葉である。日田には筑紫さんが好んで泊まった「風早」という豆田町の隠れ宿がある。亭主の武内真司さんは筑紫さんの手紙をたいせつにコレクションしており「手考足思」がしたためられている。
   
   もうひとつだけ因果をお伝えしておけば、近年世界遺産や文化遺産に対して、では庶民生活の「世間遺産」はどうだと喧伝してきた写真家藤田洋三さんも「手考足思」にこだわる。お父上は印鑑家さんであり、一寸角の「手考足思」印鑑を別府市の近代建築保存シンポジウム時に来訪した村松貞次郎先生に寄贈している。藤田洋三さんは別府の近代を解き明かしてきた写真家でもあり、村松先生の薫陶と支援を仰いできた。それゆえ私と藤田さんは異母兄弟のようなものだ、と自嘲しあう仲である。さて再度、この言葉の本義を知るために、河井の詩をゆっくりとふりかえろう。
   
 
  私は木の中にゐる石の中にゐる、鉄や真鍮の中にもゐる、?人の中にもゐる。? 
一度も見た事のない私が沢山ゐる。?
始終こんな私は出してくれとせがむ。?
私はそれを掘り出し度い。
出してやり度い。?
私は今自分で作らうが人が作らうが、そんな事はどうでもよい。
新しからうが古からうが西で出来たものでも、東で出来たものでも、そんな事はどうでもよい、?すきなものの中には必ず私はゐる。
私は習慣から身をねじる、未だ見ぬ私が見度いから。
私は私を形でしやべる、土でしやべる、火でしやべる、木や石や鉄などでもしやべる。
形はじつとしてゐる唄、飛んでゐながらじつとしてゐる鳥、さういふ私をしやべり度い。
こんなおしやべりがあなたに通ずるならば、それはそのままあなたのものだ。
その時私はあなたに私の席をゆづる。
あなたの中の私、私の中のあなた。私はどんなものの中にもゐる?立ち止つてその声をきく。
こんなものの中にもゐたのか?あんなものの中にもゐたのかあなたは私のしたい事をしてくれた、?あなたはあなたでありながら、?それでそのまま私であつた。あなたのこさへたものを、私がしたと言つたならあなたは怒るかも知れぬ。
でも私のしたい事を、あなたではたされたのだから仕方がない。
あなたは一体誰ですか、さういふ私も誰でしやう。
道ですれちがったあなたと私、あれはあれで、あれこれはこれで、これ言葉なんかはしぼりかすあれは何ですか、あれはあれです。?
あなたのあれです。あれはかうだと言つたなら?それは私のものであなたのものではなくなる。
過去が咲いてゐる今、未来の蕾で一杯な今。
   
   あらためて河井が言う「手で考えて足で思う」ということが思想であり哲学に昇華されていることがわかる。「私のしたい事を、あなたではたされたのだから仕方がない。」私もはっと気持ちを誘う手仕事のものの前で、このようなつぶやきを放ちたいものだと思うばかりである。
   
 
   
  2. 建築探偵
   
   徹頭徹尾フィールドワーク。これしかない、そう思ったのは、1980年代初頭の村松研究室時代に藤森照信さんの背中を見て育ったからだ。専門的に言えば「悉皆調査」という言葉に尽きる。藤森さん(その後、東大教授)が同門の堀勇良さん(その後、文化庁専門官)と日本建築学会歴史意匠委員会大正・昭和戦前建築調査賞委員会(主査・村松貞次郎)の事務局仕事を引き受けるかたちで、全国各地に現存する幕末明治・大正・昭和戦前期の建築物を台帳作成化しようとしていた。朝日新聞学術奨励金とトヨタ財団学術助成を獲得しながら、1万2000棟あまりが再発見され、トヨタ財団出版助成を得て、1980年日本建築学会編「日本近代建築総覧?各地に遺る明治大正昭和の建物」が刊行された。
   
   これらの成果は全国各地でリストのお披露目をかねた連続シンポジウムで報告され、広く市民社会に喧伝されていた。壇上には藤森さんをはじめ、最前線で調査活動を展開した各地の研究者の先生方が登場し、調査から判明した各地の現存状況や全国を連ねた際の近代建築の特徴が語られ、注目すべき建築遺構やディテール(細部意匠)を連続スライド写真上映で魅了する建築写真家増田彰久さんの「西洋館の詩」が好評を博していた。かくいう私も東京藝術大学大学院修士課程院生の頃、日比谷のプレスセンタービルのホールで開催された同シンポジウムに参加し、壇上の報告の凄さや増田さんの映像の虜になった。ミイラ取りがミイラになる、まさにこの会場で感じた感動から冷め切れず、壇上で近代建築の魅力を訴えていた藤森さんとの邂逅を機に、建築家をめざしていた道程を潔く建築史家への途へ変えてしまった。
   
   建築探偵とは言い得て妙なり。1974年、東大院生だった藤森照信さんと堀勇良さんによる命名である。「日本近代建築総覧」作成のための下地とも言える東京都内の遺構探索がまさに探偵稼業そのものであった。若い研究者たちが日頃は通過するだけの街の中の風景に立ち止まり、由緒ある西洋館や古い街並を再発見していく。由緒や来歴を知るには専門的な文献実証も伴う。それでもわからなければ往復葉書で問うてみる。返事に一喜一憂しながら、スリリングな由緒探しの楽しみに病みつきとなった面々が「東京建築探偵団」を構成していった。都内を徘徊し、古い建物、変った建物を探し、記録し、いろいろなメディアを通して市井にもう一度伝え直していく作業。
   
   彼ら同好の士は「東京建築探偵団」を名乗った。日本大学生産工学部の清水慶一さん(その後、国立科学博物館 1950?2011)たちを加え、これらの都心調査の成果はリストに結実。そしてさらに研究エッセイを加え、1982年秋、鹿島出版会より東京建築探偵団著「近代建築ガイドブック」関東編として上梓された。以降、このシリーズは全国にも展開し、市井に爆発的な近代建築ブームを生み出す嚆矢となった。同書は売れ行きも良く版を重ねたが、図版はすべて私が書いた。当時、藤森さんが苦学のフジハラに仕事をさせたいと担当編集者の森田伸子さんに願い出てくれた。そのおかげで関東一円の主要な近代建築の所在をそらんじることができた。
   
   この作業は、昭和初期に提唱された「考現学」の創始者今和次郎へのオマージュだったと言ってもいい。考現学とは考古学でもない、現代や同時代そのものを観察し探求する学問である。当時の今和次郎は唱えた。この考えが遙か時代を超え今も重要なのは、移ろい続ける社会や世間の瞬間瞬間の断面に投影される時代精神や風俗を丁寧に観察し記録し、時代を超えても息づく点にある。明治大正昭和の建物を再発見するという作業も同根の意義と価値を有している。1980年代前半の日本社会に遺されていた文化が調査され記録される。
   
   このことの意義がより鮮明になったのは、わずか数年後、東京をはじめとする日本全体を襲ったバブル景気のさなか、私たちが調査を評価をした建物たちがあっけなく露と消え去ったときである。今まで目の前に1世紀以上も佇んでいたはずの馴染みの建物が、あるとき不意に喪失される。その瞬間、私たちはそこに以前、何があったのかさえ思い出すことができない。そして雨後の筍のようににょきにょきと新たなビルが登場する。ひとりひとりの脳裏に焼き付いていたはずの都市と建築の記憶が断絶されてしまい、街角に何気なく寄り添っていてくれていた空気が干上がってしまう。懐かしいまちの風景がなにものかに徐々に押しやられていく。思い出せないもどかしさ。喪失したからこそ、よりいっそう懐かしくなる感覚。各地でこのような文脈の切断が行われ、私たちは精神の流浪を余儀なくされていく。
   
   だからこそ建築探偵への依頼が増えていったのだろう。いたずらな開発と新陳代謝に抵抗するかのように建物の保存運動が次々と各地で生じていった。むろん建築探偵は、こうした保存運動の現場にも関わる。建物の歴史的な成立過程や由来来歴の専門調査を実証的に進め、そこから包括的な評価をいちはやく行う。同時に、どのような保存や修復の可能性があるのかを検討し、必要ならそのための提案やデザインを行うことも少なくない。かつて建築家への夢を捨てたはずだった私が、保存を唱える市民の方々へ、積極的に残しながら使い込んでいくアイデアを提唱している。過去を凝視する建築探偵から未来を創出する新機軸を獲得していく。建築家への途を断念して後ろめたさや屈辱感から脱し切れないでいた当時の私にとって、これは意外な展開であった。保存が創造に昇華する。こうした観点から世界を見渡していけば、イタリアのヴェローナの古城を生かしたカルロ・スカルパ設計のミュージアムのように優れた例には事欠かない。
   
   時代を流行歌手のように牽引することとなった同世代の建築家たちはバブル景気でビジネスも当たり大はしゃぎであったが、建築探偵の矜恃を自認していた私は古色蒼然とした建物を愛でながら都市と地方を歩き続けた。
   
   あらためて私の出身は九州・阿蘇であり、苦学を承知で上京していた。敬愛する藤森さんの影響は学生結婚にも反映したが、長男が生まれたときも北海道沿岸部の鰊御殿の幾多を渉猟中、次男が生まれたときは新潟県で山村集落のなりわい調査を続けていた。20代が終わり、他にはひけない覚悟の30代、本気で建築史家をめざすしかないと心に決めた。
   
   
  手考足思・建築探偵・路上観察・世間再生そして小さな物語の聞き手として(2)へつづく
   
   
   
   
  ●<ふじわら・けいよう> 
工学博士・建築史家・まちづくりオルガナイザー・九州大学大学院芸術工学研究院教授・日本全国スギダラ倶楽部北部九州会員
九州大学研究者情報 HP http://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K002281/index.html
E-mail keiyo@design.kyushu-u.ac.jp 
藤原惠洋研究室 http://www.design.kyushu-u.ac.jp/~keiyolab/
ブログ http://keiyo-labo.dreamlog.jp/
   
 
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