連載
  佐渡の話 第2話 「ハートボイルど」
文/ 崎谷浩一郎
   
 
   相川のまちは小雪が舞っていた。車中から白い雪の舞い方を伺うと、どうやら風も強そうだ。僕らを乗せた白いバンの中は、佐渡市の担当者Kさんのミョーに明るいトークのお陰もあってそんな外の状況を感じさせないくらい温かい。相川の町並みを眺めながら海岸沿いの道を少し走り、山に向かって車がぐっと右折した瞬間のことだった。「あ、あれです!」助手席のKさんがひょいとこっちを見ながら目の前の山肌を指差す。見たこと無い光景が目の前にドン!と現れた。階段状の巨大な構造物が山肌の斜面にへばりついている。「北沢センコウジョウって言うんですけど、佐渡鉱山の遺跡ですヨ。なーんかスゴいらしいんですけど、我々にはさーっぱりね!」Kさんが続ける。我々が「おー…」とか「うわぁ、すげー…」とか言ってる間に、車はセンコウジョウのすぐ近くの駐車場に着いた。
佐渡島の西端に位置する相川
   
 
 

相川中心部。尾根沿いに通された京町通り、尾根を挟んだ北側の北沢を流れる濁川沿いに鉱山施設は集積している.

 
  目の前にドン!と現れた北沢浮遊選鉱場.左手斜めの石積みは明治期の青化選鉱所跡.
   
   太平洋戦争直前の昭和20年代、佐渡鉱山は日本で最も大規模な鉱山施設のひとつとして、開発のピーク期を迎えていた。江戸時代に幕府直轄領となってから本格的な鉱山都市として開発が進められ、明治から大正、昭和初期にかけて機械化、近代化を推し進め、一大産業都市してその隆盛を極める。今、目の前に広がる構造物の風景は、その開発ピーク時の鉱山関連施設の遺構である。佐渡鉱山で特筆すべきは開発の期間の連続的長さである。実に400年以上もの間、採掘や精錬の技術と施設を維持更新しながら産業都市として発展を続けてきた。このような都市は世界にも稀だという。
   
   鉱山といえば昨年の夏、南米チリ北部コピアポの鉱山落盤事故が記憶に新しい。採掘作業中の作業員33名が地下約700mの坑道に70日間もの間、閉じ込められるというニュースが世界の注目を集めた。幸い全ての作業員の方々が奇跡的に生還を果たしたが、あのニュースを見ながらつくづく感じていたのは、我々の日常生活の中では、鉱山やそこで働く人々のことを目にすることや考える機会はほとんどない、ということだ。しかし、彼らにとっては、自らの命を危険に侵しながらも愛する家族のため、友人のため、愛人のため?、毎日暗い坑道に潜ることこそが日常なのだ。「日常」という言葉はわかったようでわからない言葉である。ひとそれぞれ暮らしている「日常」が異なるので、一方での「日常」が他方では「非日常」となる場合もある。しかしいずれにせよ、それら「日常」と「非日常」の往来によって、我々人間は生きている。
   
   さて、今から約70年前、ここ相川にも鉱山都市としての「日常」があった。濁川を中心とした北沢地区に散在する北沢浮遊選鉱場(昭和13年、鉱物を浮遊選別する施設)ほか数々の構造物はそれらを思い起こすのに十分なほどの規模と本物の迫力を持っていた。選鉱場の奥には明治期の青化・浮遊選鉱所(明治26年)の石積みがぬっと姿を見せている。中でも「シックナー」という無濾過沈殿装置は、直径が約50mもある巨大な円形ロートのようなコンクリート構造物で、昭和15年の築造当時東洋一と言われ、地形との納まりは造形的要素も加わって美しい。装飾を排した機能美、といってしまえば簡単だが、70年の時を超えてなお、本物の持つ力強さのようなもの、その奥にある人間の強烈な創造的意思のようなものを感じる風景であった。「すっげー!」僕ら(というか南雲さん)は興奮しっぱなしである。
   
 
  50mシックナ―.地形にでっかいロートが埋まっているかのようだ.足元が藪で覆われているため全容がわからない.
 
  北沢地区全景を上からみた様子.地形との収まりに造形的美しささて感じるシックナ―.画面左黒い屋根の建物とシックナ―の間の荒れ地が広場計画地.
 
  昭和初期の北沢浮遊選鉱場の様子.建物もかっこいい.(写真:ゴールデン佐渡所有)
   
   再び車に乗り込むと、次に石炭や鉱物の搬出入を行ったという大間港へ向かった。北沢選鉱場から大間港までは約500mしか離れていないので、歩こうと思えば歩くこともできる距離だ。70年前は北沢と大間は空中索道やトロッコレール軌道で繋がれて、物資が行き来していたという。明治期に築造された大間港石積みの護岸は土木分野では知らぬ人はいない服部長七による「長七たたき工法」によるもので、重要文化財の四日市港旧防波堤(三重・四日市)を始めとして全国各地に残る土木港湾遺産のひとつでもある。(http://www.umeshunkyo.or.jp/108/kaitakusya/245/data.html)海へ突き出た橋脚は「ローダー橋」と呼ばれ、資材や物品を積み上げ、積み込みしたレール付きクレーン橋の名残である。周辺にはクレーンの台座やトラス橋ほか、敷地内にはレンガ倉庫や火力発電所の基礎跡も残り、最盛期の稼働時の様子や規模を日本海を背景に産業博物館の展示物のように屹立している。
   
   
  大間港.白いバンがある場所が広場計画地.   大間港に残るクレーン台座や橋脚跡.(2008年4月撮影)
 
  昭和14年の大間港、ローダークレーンが稼働している様子.(写真:ゴールデン佐渡所有)
   
   しかし冬の日本海に臨む相川のまちは風も強くて寒い!北沢、大間で頭は興奮して熱々だが、体はすっかり冷え込んだ。公共事業でデザインが必要とされるのは大体が年度末も差し迫った時期に初めて現地入り、ということが少なくない。これはこれで由々しき問題なのだが、事態が差し迫り、いよいよ手詰まりとなった状況で戦線へ投入されることが多い。ということで、大抵現場の第一印象は「寒い!」ということになる訳だが仕方が無い。さて、冷えきった体を温めるのはやはり、飯である。ということで、2カ所の広場予定地を回った我々は、上陸後最初の飯へと向かった。
   
   初めて行った現場の気温の記憶もさることながら、初めて入った店の記憶も鮮やかだ。その名も寿司屋「初」。なんと覚えやすい。行きの車の中でK氏が話していたように、佐渡では一般的に観光のオフシーズンである冬が最も魚介類が旨い、と言われている。特に有名なのが皆さんご存知「佐渡の寒ブリ」だろうが、字面だけでおちょこ3杯はいける。「初」で食べたお刺身定食も散々煽られた期待値を超える旨さであった。熱々のあら汁は冷えた胃袋の隅々にまで染み渡り、見た目は大して飾りっ気のない切り身は口の中で圧倒的な存在感を示した。そして何より白米がうまかった。それにしても、およそ2年後に、ここ寿司屋「初」を舞台に起こる事件についてはこの時誰も知る訳が無かった。2年後の「初」事件に居合わせることになる川口女史も、この日は別の現場があるということで、教育委員会の方々に連れられて、ここでお別れとなった。
   
   さて、おいしい昼食を済ませた我々はKさんの案内で再び相川のまちなかを見て回ることにした。矢野さん、南雲さんと僕、そして朝からKさんの隣りで黙々とドライバーを務めてもらっているAさんの5人のメンバーだ。相川のまちは尾根に京町通りという江戸時代の佐渡奉行、大久保長安によってつくられたメインストリート沿いに展開する上のまちと海岸沿いの下のまちで構成されている。上のまちと下のまちはかつては石を積んだ幾つか坂道で繋がれていて、今でも大切な生活道。京町通りと下町をメイン坂道である「長坂」は石段の上からコンクリートで固められおり、奉行所とまちをつなぐ「西坂」は石段を解体して修景整備が行われている。ここで、今まであまりしゃべっていなかったAさんがふと口を開いた。「俺っち、デザインとかよくわからんスけど、こういうのってどーなんスか?」
   
   相川に暮らす人々の生活道である古い石段の階段は長い年月人々が行き来して石の表面が磨り減り、味わいや風情があっていいという見方もあるが、一方で使う人にとっては老朽化もあって、歩行の安全性のことを考えるといつまでもそのままという訳にはいかない。しかるべき時期とタイミングがくれば何かしら手を入れなければならない。西坂は奉行所とまちをつなぐ古い坂で、そうした文脈を感じるようなデザインによる修景整備が行われていた。Aさんがそのデザインに明らかに違和感のようなものを感じているのが質問のニュアンスから伝わってきた。僕は「どうなんでしょうね」と当たり障りの無い返答をしたが、今思えば、あの時Aさんは、無意識かもしれないが、初対面の僕のデザインに対する感覚を確かめるために聞いたのではないか、と思う。
   
 
  江戸時代のメインストリート,京町通り.
   
上のまちと下のまちをつなぐ長坂.コンクリートで覆われた下には昔の石段が眠る.
  大工町.京町通りにはかつての町並み、町名が多数残る.鉱山の穴掘り工夫を大工と呼んだ.   修景整備された西坂.人々の生活の場である公共のデザインはどうあるべきか….
   
   地域に住む人々にとって、生活の場における公共デザインとは何か。公共事業の舵取りを預かる行政は外部から「専門家」と呼ばれる人々を次から次に連れてきて、ズカズカ自分たちの生活の場に入り込んでは、絵姿を描きそれが公共の場として出来あがってしまう。少なくとも相川のまち中にも、そのような場所が幾つか見られた。公共デザインのクライアントは行政ではない。我々公共のデザインに関わる者は、その場限りの流行廃りに左右されず、本当にその地域にとって大切なことは何か考える必要がある。地理、歴史、文化、文脈を体全体を使って感じ取り、何よりその土地に住む人々の声に真摯に耳を傾け、正しいと確信したデザインを責任を持って提供しなくてはいけない。
   
   今でも忘れられない印象的な話がある。我々東京チームが初めて住民の方々と懇親会の席で同席した際のことだ。お互いそれぞれ一言挨拶を、ということで住民の方のひとりから話があった。『我々は2度コンサルさんに騙された。こういう風にします、こうなります、と散々説明していたのに、一向にそのようにはならない。今回はそうならないようにしてもらいたい!』それに対して矢野さんが『我々は専門家のコラボレーションチームで臨みますから。3度目の正直ということで、大丈夫です!』と答えた訳だが、大丈夫の保証なんてどこにも無かった。ただ、我々は南雲隊長を筆頭に、熱いハート、そう煮えたぎるハートを持ったハートボイルど(!)なチームであることは確かだった。
   
   
  (つづく)
   
   
   
   
  ●<さきたに・こういちろう> 有限会社イー・エー・ユー 代表 http://www.eau-a.co.jp/
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