公共から個協へー個がつくるこれからのパブリック
文 ・ 南雲勝志
   
 

スギダラを初めて6年が経つ。継続は力なりというがその心は何であっただろうか?

地域のまちづくりや、スギダラを通して最近思うことがある。実は公共は行政が作るものではなく個が作るものだということ。

昭和30年頃代から40年代始めまでは、行政区の最小単位としての5人組、または隣組というように個があつまり、最小限の責任や機能を担っていた。つまり公が義務として成立していた。
やがて自由主義の名の元に、出来るだけ義務から逃れるような風習になってくる。仕事が忙しくてそれどころではない。時間がある人がやってくれ。自由とは自分が他に束縛されないこと。そして税金だけは文句も言わず払い続ける。法律は犯さないが、責任からは出来るだけ自由でありたいという時代になる。

現在の都市部に於いて、行政区の最低単位自治会がその機能を持っているかといえば、緩い地域の約束事だけで、強制力や義務は限りなくなくなっている。ましては自らこの地域を元気にするために・・・的な発言はほとんど無い。強いていえば「安全と安心」である。豊かさ以前の最小厳の「保証」である。原因のひとつはサラリーマンが多いため、自治会の構成員は主に主婦が担当になるからだ。もちろん主婦を責めるのではなく、まちづくりや行政ということに本来の参加をする意志が男から消えたといった方が正しい。地域より仕事、会社である。
この行政区がまともに機能しなくなったことは地域の人間力、地域力が著しく失われていくことになる。しかし、二言目には政治が悪い、行政が悪い・・・である。(笑)
この実体で地域に夢と希望は無理である。

良く言われるように、団塊の世代のこれからの生き方は日本の社会を大きく左右する。
一流大学を卒業し、一流企業に就職し最終的に会社的にも、社会的にも責任ある地位に上り詰める。それがまさに自分の使命であり、本人は社会にとって必要な人間だと確信する。
ところが不幸な事に企業は定年がある。人生はまだまだ長いのに彼は。大学を卒業し就職をして以来ずっと果たしてきたと思っていた社会的責任という地位から降りざるを得なくなる。本人がもっとやりたいか、放棄するかその権利さえ無視するように機械的にやってくる。希望退職55才。定年60才である。理由をつけ、特別職に就いたとしてもせいぜい5年、65才が企業の一般的なリミットである。あんなに身を粉に会社に貢献したのに。
ではそういった人達はどんな希望を持つか。あんなに社会に貢献し、スキルもノウハウもあるのに社会は自分の居場所を奪った。極端な言い方だが、そう思う方は少なくないはずだ。

いやいや家族や地域にやっと貢献できるではないか? そう思うことも出来る。しかしその時に彼を迎える居場所が地域にあるだろうか。答えは大体想像出来るであろう。自分は仕事が忙しいから家族や地域の事は無理だ。妻に任せている。なんなやり方をしてきた人間が定年になったからといって温かく迎えるキャパシティは今はない。田舎でさえ、排他的に扱われる。

しかし、彼らは一流企業で百戦錬磨の戦いをして来た人間だ。能力がある。
何とかその能力を生かすことが出来ないか?

一方行政は、「政治と金」に代表されるように、クリーンさが大事。低成長時代は無駄遣いをせず、有効に使うために最大の努力をする。無駄なお金は全部カット。堂々と言えるのは福祉や少子化あたり、ゆとりのある人間育成などに金と時間を書ける余裕は今はない。

高度成長の走りすぎ、足下を見ずにひた走って来たことは大概認める。これからは自然環境を大切に、可能ならば自給自足をし、人に迷惑をかけず、一人で生きていく力をつけることが大切だ。可能なら農業が出来たら・・・そんな人も多い。そんなに農業は甘くない・・・(笑)
イエスかノーか? いや答えは農家だ。と言いたくなる人もたくさんいる。(嫌み)

しかし、ちょっと待ってほしい。50年前に逆戻りすれば言い訳ではない。この50年をいかに読み取り未来に繋げるか?その事に力を注がず、自分の未来だけを考えることはあまりにもエゴではないか。自分の事だけ、自分の利益だけ、もっというと自分さえ良ければひとまず安心という発想は、いかにもプライベートであ る。
社会を豊かにするために・・・という理念を持ち、自分の事だけではなく、みんなの利益を考える。それが公共精神であり、社会はそれなくしては成立しない。(当たり前だが)
世の中の企業戦士と言われ戦い抜いた力を、競争ではなく、みんなの利益のために使えたらどんなに有効か。
そんな考え方は実は田舎では今も成立している。たとえば冠婚葬祭。葬儀があれば隣組が協働作業を行う。それも男性が受付から振る舞い料理まで全体の流れのすべてを受け持ち、喪主に出来るだけ迷惑をかけない。家庭は個であり、冠婚葬祭はパブリックだあるからだろう。一見封建的なようでいて、実に協働意識がしっかりしていて、公共意識が働いている。

話が長くなったがそんな公共意識を持ち、社会を人と人のネットワークで少しでも良くできたら。それはスギダラの基本理念でもある。
もし、みんなの利益を考えた時、個人が考え個人が実践したら・・・そこには新しいパブリックが生まれる。そうこれからのパブリックは行政が作るものではなく、個人が作るものになっていくだろう。その意志を示したときに現在の行政は最大限の協力をしてくれるはずだ。
その意識の転換をいかに早く行えるか? それがこれからの地方の力の差となって表れててくる。新しい時代に突入した。個人個人が持っている知恵や能力はみんなのものにしよう。

地域から縛られず、会社や公務員や沢山の価値ある仕事をたくさんやってきた。今こそ、その素晴らしい力をもう一度地域に返すときではないだろうか。お金ではなく、地位でもない、新しい涙と感動がそこから生まれる。
そう、団塊の世代の方々を事例に出したのはわかり易いからで、責めるつもりなど毛頭ない。個人個人が夢と感動を持ち、力を合わせることが豊かな社会、元気な社会の元である。そして他の地域との比較ではない、誇りと自慢を持てる自分たちの地域づくりをしていこう。

   
  月刊杉5周年に寄せて。
   
   
  ● <なぐも・かつし>  デザイナー
ナグモデザイン事務所 代表。新潟県六日町生まれ。
家具や景観プロダクトを中心に活動。最近はひとやまちづくりを通したデザインに奮闘。
著書『デザイン図鑑+ナグモノガタリ』(ラトルズ)など。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部
 
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