連載
  杉と文学 第22回 『冬の蠅』 梶井基次郎 1928年
文/ 石田紀佳
  (しばらくまんがは休止します。)
 
ちょうど冬至にむかいながら、この「冬の蠅」前後の小説をめくっていた。前回の「筧の話」にも日の光が描かれていたが、季節はよくわからない。なんとなく夏のころが中心のようだったが、こちら「冬の蠅」は冬の日の光りや陰りが、まさにそのとおり、という具合に書かれている。
  書く、ということは胆力のいる行為に思うが、不治の病を得て体力も消耗して絶望的ななか、執拗に落日を描く。そしてまだ若いせいか、自暴自棄なきどりがそこここにあって、やはりつらい。
   
  杉林のかたわらに転地療養し、二度目の冬をむかえた「私」は蠅と日光浴をし、「結局は私をいかさないであろう太陽」を呪う。
  「谷の向こう側には杉林が山腹を蔽っている。私は太陽光線の偽瞞をいつもその杉林で感じた。昼間日があたっているときそれはただ雑然とした杉の秀(ほ)の堆積としか見えなかった。それが夕方になり光が空からの反射光線に変るとはっきりした遠近にわかれて来るのだった。一本一本の木が犯しがたい威厳をあらわして来、しんしんと立ち並び、立ち静まってくるのである。そして昼間は感じられなかった地域が彼処に此処に杉の秀並みの間へ想像されるようになる」
  薄ぐらい杉林、日をまともに浴びない杉林、を彼は憎まない。しかしこの記述につづいて、日のあたった風景を「感情の弛緩」「神経の鈍麻」「理性の偽瞞」と責める。そしてついには「平俗な日なため!」と唾をはく。日が地上を去った僅かな黄昏れだけが「私の目を澄ませ心を徹らせる」。僅かな黄昏れ、それは彼に残された僅かな日々に重なる。強がりのような悲しさ。
   
  早晩死ぬであろう蠅が日光をもとめ、そこで交尾をするのに驚く。たいていは嫌われる蠅だが、シンパシーを感じて、動きののろい彼らをまちがって潰さないように注意さえする「私」。しかしある日、「腑甲斐ない一人の私を、人里離れた山中に遺棄して」のち(「杉の秀が細胞のように密生している遥かな谿」までたどりつき)、あたかも冬の蠅のように港町の娼家をうろついた。
  その3日のあいだに、彼の部屋にいた蠅はいなくなってしまうのだ。留守の間に日が入らなかったので蠅は死んでしまったのかもしれない……きまぐれな「私」の行動が蠅を殺したように、いつか自分も殺されてしまう。そんな新しい空想をし、陰鬱を極めていく。
   
  不治の病を得ないまでも、わたしたちは早晩死ぬ、蠅のように。いつも日にあたって暮らしているわけではなく、うつうつとした杉林の中から抜けられないようなときもある。抜け出したいと願う。しかし日のぬくもりが感受性を鈍化させるのもまた事実である。暗い杉林の冷たい風に頭が冴えるということもある。これを梶井基次郎は教えてくれる。そうしてはじめてこの陰鬱をほどいて、抽出された感受性を平らかにうけとることができるのではないだろうか。今回はようやくそのように読めそうになってきた。
   
 
  杉の木漏れ日
   
   
   
   
  ●<いしだ・のりか> フリーランスキュレ−タ−
1965年京都生まれ、金沢にて小学2年時まで杉の校舎で杉の机と椅子に触れる。
「人と自然とものづくり」をキーワードに「手仕事」を執筆や展覧会企画などで紹介。
近著:「藍から青へ 自然の産物と手工芸」建築資料出版社
草虫暦:http://xusamusi.blog121.fc2.com/
杉暦web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_nori.htm
ソトコト(エスケープルートという2色刷りページ内)「plants and hands 草木と手仕事」連載中
   
 
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