連載
  スギダラな一生/第26笑  夏の思い出 「見かけ倒し」
文/ 若杉浩一
  夏が来ると思い出す、学生時代の汚点
 

先日僕のボスの細井さんと、馬鹿話をしていたとき、彼がこう言った「昔、バンドを見に行った時さ〜、JAZZバンドでギターのフルアコを演奏して、渋くてスッゲ〜格好いいオッサンがいたんだよ。見るからにうまそう、みんな期待してみてたんだけど、アドリブになったらペケペケでヘッタクソなんだよ。見た目って損だね」って話しで大笑いをした。たしかに見た通りの人は少ない、大体見かけ倒しか、ハッタリが多い。しかし極度の見かけ倒しは結構笑える。そういう僕も極度の見かけ倒し人生だった。大体、高校生で既にアラブ青年になっていて、どう見ても17、8歳には見られなかった。良く「奥さんはいらっしゃいますか?」と聞かれるし、未成年の僕に「酒タバコは、かなり強い」という印象を勝手に抱かれる。そして「もう、女性には飽きて、男かも」なんて妄想とも思えることさえ、後で聞かされる羽目になる。実は相当にシャイな性格で、本当は、格好がつかないので、無関心面をしているだけである。つい最近まで、一人で服を買いにいけなかったし、店員と話をするのが苦手だった。

従って、最初のナッチャッテJAZZMENの話しは、他人の話ではない。僕はJAZZ好き者会の会長をやっていて随分色々なバンドと交流をして、博多界隈では仲間やプロの方々から遊んでもらったが、僕がうまかったからではない。僕のバンドが良かったのだ。僕のアドリブは拍手をもらった覚えがない。そう、見かけ倒しJAZZギターだった。「あ〜、どうか期待をしないでくれ。俺はヘタレなんです。」そう思うことばかりだった。
そんな僕の最大の見かけ倒し話をしたい。夏が来ると思い出す、学生時代の汚点である。蒸し暑い夏を一笑いして頂ければ幸いである。

僕は熊本の天草生まれである。海に囲まれた島国出身である。美しい海と焼けるような暑い太陽の下で育った。夏は毎日、川か、海で遊ぶ、しかも深い、気が遠くなるような青々とした海や川で遊ぶのである。僕はそんな夏が大嫌いだった。何故なら、金槌だったかからだ。同級生で泳げないのは僕と、牧師の娘、江崎いずみちゃんだけだったと思う。確実に中学一年まで全然泳げなかった。
毎年の夏が怖かった。泳げない僕は、よく、畳でイメージトレーニングをするのだが、全然泳げるようにならなかった。こんな土地で泳げないのは、とても恥ずかしい。だから夏は一人で虫と戯れる日々だった。水辺で楽しそうな友達を見るのが嫌だったからだ。
中学後半になって、ようやく、25メートルを泳げるようになったが、もはやクロールだか、犬かきだか判別がつかない泳ぎでなんとか到達するのが精一杯だった。そして僕は、高校進学とともに、熊本市内の高校へ進学した。もう海はない、深い川もない。せいせいしたと思った。

そんな中で、事が起きたのだった。僕の高校は毎年プール開きとともに全校生対抗水泳大会があるのだ。しかも競泳用プールで50メートル。足なんか着かない深さだ。しかし僕は知る由もなかった。
クラスの中で出場選手を選ぶ事になった。なんせ初めてだから、誰がどれくらい泳げるか解らない中で選手を選ぶのだ。僕は最初から宣言した。「俺、水泳ヘタばい、泳げんばい」これくらいはっきり言っておけば大丈夫だろうと思っていた。しかし、僕は大会当日、とんでもない事を知らされた。
「若杉〜、50メートル平泳ぎ頼む」
「なんば、言よっとや!!、おりゃ泳げんて言ったじゃね〜や」
「大丈夫、選手がおらんたい、ビリでよかけん出てくれよ」
「いや、でらん!!」
「もう無理て、頼む」
「お前、馬鹿じゃね〜や」
「皆が、若杉は、天草出身やし、あの面構えはぜって〜早かじぇ、って言うけんさ」
「お前達、アホばい。おら出んばい」
という口論をしている間に、呼び出しが来てしまった。僕も泳ぐだけだったら何とかなるかと、何の保証もないのに、そう思い、飛び込み台に立ってしまった。たしか6コースぐらいだった。

「第六のコ〜ス、一年一室。若杉く〜ん」同級生の声援が聞こえた。そしてあたりを見渡してびっくりした。一学年500人の生徒3年分、約1500人のギャラリーが階段状の観客席にぎっしりだ。そして僕の憧れの彼女の姿もその中から発見した。「なんとか、なりますよ〜に。せめてビリだけは勘弁してください」と、これまた何の保証もない神頼みをしてしまった。

「バ〜ン!!」スタートを切った。僕はありったけの力で水を掻いた。水飛沫とともに、どんどんライバルの足が向こうに遠ざかっていくのが見えた。力一杯水を掻いた。しかし全然進まない。そう、クロールもどきなら、まだしも、平泳ぎなんて、格好しか知らない。ただ、ヘラヘラ手足を動かしているだけなのである。焦れば焦る程体力を消耗する。そして目の前の水面下のラインが一向に動かない。
「ブクブク」「わ〜〜」「ブクブク」「わ〜〜」僕の喘ぎと歓声の連続がやがて聞こえなくなった。25メートルあたりだろうか、「ブクブク」だけになってしまった。辺りを見回すと、もうプールには誰も泳いでいない。既に全ての選手はゴールをして、僕だけが泳いでいるのであった。しかし焦れば焦る程進まない、体力は限界に達した。もう辞めよう、僕は途中辞退することに決めた。しかしだ。脚を着こうとしたら、着かないのだ。そう競泳用のプールは深い、脚なんか着かないのだ。僕はビックリして溺れそうになった、いや溺れていた。
もはや、泳いでいるのか、溺れているのかさえわからない、奇妙な泳ぎになり、平泳ぎは「溺れそうな犬かき」に変わってしまった。

広いプールの中で、僕の「ブクブク」「ポッチャン」「バシャバシャ」の音だけがこだましていた。僕は恥ずかしくて、顔をあげられなかった。おまけに、もう泳ぐ体力も残っていない。僕は最後の力を振り絞って、プールサイドに寄って行った「もう止めよう。もう終りにしよう。」そう決心し6コースから移動を始めた。プールはシーンと静まり返っていた。「もう終り、終わり」そう思った瞬間、クラスメイトの誰だかわからないが「若杉〜〜〜頑張れ〜〜〜」と声を上げた。その声は連鎖し「若杉〜〜〜頑張れ〜〜頑張れ〜若杉〜〜」と次第に大きな声援に変わって行った。最後は「頑張れ、若杉。頑張れ、若杉」という大声援になってしまった。退場しようとしていた僕にとって、この声援は地獄からの声のようだった。こうなったらもう止められないではないか!!
僕は水面で半泣きで泳いでいた。大声援の中、僕は沈みかけながら泳いだ。
しかしそこからが長かった。もう体力の限界を通り越して、もがいている、いや溺れながら、進んでいる状態であった。

しかし観客の「頑張れ、若杉。頑張れ、若杉」の大声援の元でその光景はヘロヘロな溺れそうな少年を劇的場面に変えてしまった。随分長い時間が過ぎたように思う。最後にゴールにタッチした時にはもう、割れんばかりの拍手と声援になってしまった。しかし僕はもう飛び込み台にあがれる体力は残ってなかった。そのまま溺れてしまった。僕は仲間数人に引き上げられ、次の競技の準備が進む中、まるで重たい砂袋か、土嚢のように裏方に運ばれて行った。
暫くして、クラスメイトがこういった「若杉、悪い!本当に泳げなかったんだな。すまん」僕は反論する力も無く、うなずくだけだった。

僕の名前はこうやって、すっかり覚えられてしまった。憧れの彼女ですら、おそらく僕の名前を「あ〜、溺れた若杉くん」と知ってしまったであろう。
高校の最も恐ろしいラクビー部のコーチで、体育の奥村先生は、このときから僕のことを「若杉しぇんしぇい」と呼ぶようになった。そして名前が知れ渡ったと同時にクスクスという笑いも、頂けるようになった。
甘酸っぱい高校時代の憧れは、この時を境に男まみれの、暑苦しいものに変わってしまった。
どうして、こんなことばかり引き当てるのか?随分世の中不公平だと思った。
そして、いつもいつも、見かけ倒しで、勘違いされる見かけを悔いた。
いつか、見かけ以上になってやる、そう思い、デザインに狂い、自分に従い、暑苦しく生きて来た。そして気付くと、杉と関わり、最近デザインをやっているのかどうか?
屋台のデザインはするは、まちづくりに参加するは、子供達と暴れているは、アヒルのダンスは踊るは、一体何者かさえ自分でも解らない。
気付くと見かけ倒しではなく、見かけ不相応になっている。
一体どうなってしまうんだろう? スギダラはそういう魔力を持っている。
しかし、見かけ倒しではなく、今度こそ思った通りのような気がしてならないのだ。
夏になれば思い出す「大きな恥、水泳大会」声が出てしまう。

   
 
  3回目になりました、内田洋行2年目・下妻くんによる挿絵です。またもや、「そこかっ!!」という切り口。読者の皆さまも、どこを切り取ってくるのか、ちょっと楽しみになってきたはず。どうぞお楽しみください。
   
   
   
  ●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 テクニカルデザインセンターに所属するが、 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない
活動を行う。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長
   
 
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