連載
  杉と文学 第16回 『山と森の人々』 四手井綱英 中公新書 1975年
文/ 石田紀佳
  (しばらくまんがは休止します。)
 

三高山岳部から林学の道へいった著者が、秋田営林所などでの40年に渡る育林の経験をふりかえる。猟師、杣人、森林官、森林気象観察員などとのエピソードを書いている。文学ではないが杉山の育成についての変遷がわかるので、今回はこれを。

最初手にとって帯を読んだときは、インテリじいさんの思い出話なんてつまらないだろう、と期待しないで斜め読みのつもりでページを開いたが、山案内人の話にひきこまれ、また森林についての認識が戦前戦後と劇的に変わっていくのに驚いて、最後まで読んでしまった。杉についての話題も多い。

たとえば、「信念の森林官」と副題がつけられた岩崎準次郎の項。この人は岩手出身で東大の林学科を出てドイツで林業の天然更新法を学んできた。著者が秋田営林局に入った昭和12年は秋田スギの天然更新を中心とした新しい施業計画が日本の林業界に物議をかもしていたころらしい。その物議の中心が秋田営林局の計画課長の岩崎さんだった。著者は岩崎さんとは逆の立場のグループにいた。

その物議の前提を要約すると、
明治末期から大正の初期にかけては、全国的に日露戦争までに生じた山林の荒廃を緑化するための急速な特別経営が行われた。そうしてつくられた人工造林地のなかには多くの不良造林地ができ、皆伐人工造林が疑問視されはじめた。ドイツでもエゾマツに近いトウヒの皆伐人工造林に生育不良が生じ、新しい森林施業方法として、天然更新をはじめとする自然主義的施業方法がでていた。それがヨーロッパでは成功しつつあるようだったのか、日本でも採用することになり秋田に岩崎さんを起用した。
しかし、
「択伐さえ適当に行えば、後継樹が成立するという考え方は、岩崎氏がヨーロッパで見た施業林では事実であったとしても、そのまま日本の森林には当てはまらないのである。特にかなり陽性のスギでは現実に全く合わない」と著者が書くように、岩崎さんの立場を疑問視する人が多くなり、彼を秋田に送り込んだ監督機関の山林局が岩崎さんがつくった施業案に認可をあたえなかった。しかし岩崎さんは無認可のまま事業をすすめたらしい。それがどういうわけか許可されることになった。
しかし、戦争が激しくなり、結局多くのスギが伐られて、「天然杉択伐の岩崎氏の理想はあえなく崩れさってしまった」。

岩崎さんはスギの林床にヒメアオキが群生していても、それを抜こうとはしない人だったらしい。スギの稚樹とヒメアオキは助けあっていると解釈していたのだ。それが彼が留学した当時のドイツにおける生態学的な思想だったのだろうと著者は書く。

人間にとって都合のよい植物の共生(cooperation)と競争(competitiion) とは何か、を考えさせる項である。

興味のある方はぜひこの本を読んでほしい。

   
   
   
   
  ●<いしだ・のりか> フリーランスキュレ−タ−
1965年京都生まれ、金沢にて小学2年時まで杉の校舎で杉の机と椅子に触れる。
「人と自然とものづくり」をキーワードに「手仕事」を執筆や展覧会企画などで紹介。
近著:「藍から青へ 自然の産物と手工芸」建築資料出版社
草虫暦:http://xusamusi.blog121.fc2.com/
ソトコト10月号より「plants and hands 草木と手仕事」連載開始(エスケープルートという2色刷りページ内)
   
 
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