特集 酒と杉 

 
杉があって桶・樽が生まれ、桶・樽で日本は変わった
文/ 長町美和子
 
 
  実家の両親と兄は、お酒は嫌いではないのだがアルコールに弱いので、500mlの缶ビール1本を分け合って飲んでもすぐに真っ赤になり、いい気分になってしまう。実に安上がりでうらやましい。そんな中でいくら飲んでも顔の色が変わらない私は、ことあるごとに「オマエは橋の下から拾ってきた」と言われてきた(ノッポも私だけなのだ)。学生時代はビールにアルコールを感じなかった。友人からは「枠(わく)」と呼ばれた。ザルの目もない、という意味である。それが近頃は歳のせいかすっかり弱くなっちゃって、情けない。
しかし、橋の下だろうが何だろうが、飲める体質に恵まれたというのは幸福なことだ。いや、お酒そのものが好きというより、どっちかというと、お酒を飲んで笑顔で語る人が好きなのかもしれない。灯りの下で顔を上気させながら愚にも付かないことを延々とほじくり返し、つつき合う、その雰囲気に浸っているのが好きなのだ。たとえ翌日何をしゃべったかまったく思い出せないとしても。
   
 

というわけで、「杉と酒をテーマに書きませんか」と言われて断るわけにはいかない。あろうことか「味噌、醤油、酢なんかも含めて発酵食品全体との関わりを書きたいですね」なんてことまで、うっかり口走ってしまった。ところがところが、これがまぁ漕ぎ出してみればどこから手を付けてよいやら途方にくれるほどの大海原であった。

 

以前、雑誌『コンフォルト』の「杉とゆく懐かしい未来」特集で、石田紀佳さんが一読を勧めていた『杉のきた道』(遠山富太郎著/中公新書)を入手し、その出だしを読んでまず圧倒される。

   
 
スギは日本の杉である。そして、日本はスギの日本であった。
   
 

「トンネルを越えると雪国だった」を彷彿させる力強い一行に、スギの偉大さが集約されている。そうなのだ、発酵食と桶・樽を語るには、建築、農業、造船、輸送……日本の産業の歴史ほとんどすべてを見渡さなくてはならない。いや、逆に言えば、杉があって桶・樽があったからこそ、今の日本があるといってもいい。物事は端の方からずるずるとつながっているのである。そしてそのすべてに理由がある。それを全部網羅する気力も筆力もないので、とりあえず、これまで意識しなかったちょっとした疑問から手を付けてみたいと思う。

   
 
  秋田の桶・樽工場にて。樽にはめる竹のタガをつくっているところ
   
   
 

<木桶である必然性はどこにあるのか。――発酵の側面から>

以前、「杉樽熟成」と大きく書かれた黒酢を買ったことがある。箱にもラベルにも杉の板目がプリントされていて、「樽熟」のすぐ脇にさらに「杉樽熟成」と、それはしつこく「杉樽」が強調されている。酢でも酒でも、味噌・醤油でもそうだが「昔ながらの木桶仕込み」とか「木桶で自然にゆっくり……」「杉樽のほのかな香りが……」なんて書かれていると、これぞホンモノと思うではないか。でも、具体的に何がどういいのかわからない。ゆっくり、まろやか、ってのは感覚的なものなのだろうか?

いろいろ調べてみると、発酵や熟成に木桶や樽は欠かせないものなのか、というと、どうもそうでもないらしい。熟成のための適度な温度を保つ(外気温の変化を中身に伝えにくい、断熱性が高い)、という点では、たしかに木製容器は適しているけれど、15、16世紀になって桶・樽が全国的に普及するようになる以前、そもそも日本の発酵文化を長く支えてきたのは、壺・甕(かめ)だった!

言われてみれば、そりゃそーだ。しかし、目からウロコである。木製の容器はあったけれど、桶以前には刳りモノの椀か、曲げモノのわっぱしかなくて、木の幹の直径以上に大きく深い容器はつくれなかったのだ。重く、割れやすいやきものの器から、軽くてたくさん入る桶・樽に移行したとき、日本の歴史は劇的に動いた。それと同時に手探りの発酵から、環境を利用し工夫する発酵に突入し、酒も酢も、味噌、醤油も一気に豊かになっていった。

 
   
 

米を原料として発酵させたもののはじまりは「口噛み酒」と呼ばれるものだった。古代、酒というのは神聖なものであって、巫女が(清浄な処女じゃなくちゃダメだったそうな)加熱した米を噛み、吐き出したものを甕に貯めて酒とした。デンプンをいったん糖化させ、酵素によって分解する、という作業を唾液で行っていたということだ。「醸す(かもす)」という言葉は「噛み・す」からきているらしい。当時の人たちは、科学的なことはわからなくても、米と水に「何か」を足すと酒になる、ということははっきり認識していた。

その「何か」は自然界に存在する酵母だったわけだが、口噛み酒の次の段階で、麹カビの生えた米麹を使うと酒ができる、というのがわかってくる。たぶん最初は偶然だったのだろう。納豆が偶然にできちゃったように、自然界には発酵をうながす菌がいっぱいいる。そういう意味では、木桶というのは甕(かめ)よりも微生物が棲むのに好都合だったと言える。木の繊維や無数の孔の中には、日当たりや風通しなどの条件によって、さまざまな酵母菌が棲みついていて、当然木造の蔵の梁や天井にも酵母菌が棲んでいたのだが、その「蔵つき酵母」「家つき酵母」が酒蔵によってつくる酒に微妙に影響を与え、個性をつくっていたのだという。

そうやって偶然と試行錯誤を繰り返して、個性豊かな酒ができるようになったわけだが、個性=品質のばらつき、ととらえると、これがやっかいだ。それで、時代が変わると、余計な菌が勝手に活躍しないよう、ホーロータンク仕込みが主流になっていった。また、酵母の研究も国立醸造試験所が中心になって行うようになり、優秀な酵母菌が純粋培養されて全国の酒蔵に頒布される現在のシステムができた(その酵母を使って麹をつくる作業には、水分と熱を調整してくれる杉製の室や麹蓋が今でも使われているが)。

はぁぁぁ。なんか「優秀なものを純粋培養」と聞くと、本能的にイヤですねー!

ま、いくら酒造りを科学したところで、細部が人の手にかかっている以上、蔵ぐせは継承されるとは思うけれど、杜氏の勘に頼らずに高品質な酒をつくれるようデータ化が進んだら、それと引き替えに人間の「つくる力」は弱まっていくのではないだろうか? 常に移ろう自然と交歓する「勘」、自然のリズムを感じ取って利用していく、生き物本来の力を失っていくんじゃないか、と不安になる。それはつくる側だけでなく、味わう側にも言えることだ。「優秀な酒」が約束されても、飲む人の感覚が鈍れば意味がない。

そんなこともあって、最近では自然の力に身をゆだねる「桶仕込み」がだんだん見直されるようになってきた。消費者がその価値や意味を理解するようになってきた、とも言えるだろう。

「今最もいい酒とされる吟醸酒は、我々がホーロータンクという器を得て、欲しい菌以外を排除できるようになって初めて醸(かも)せるようになった酒です。そんな『何でも人間の思うとおりにしよう』という現代の酒づくりの意識を、ときには捨てちまうことに桶仕込みの面白さはあるはずでね……」(『LIVING DESIGN vol.29』「桶仕込みがやってきた」より抜粋)

とは、「澤乃井」で知られる小澤酒蔵の社長の言葉である。創業300年を越える老舗は、2002年に真新しい杉桶をつくり、若い社長と若い杜氏の采配のもと、誰も経験したことのない桶仕込みへの挑戦を始めた。その桶となった杉というのが、吉野杉でもなんでもなくて、小澤酒蔵の裏山の八幡様を囲む森に立っていた3本の杉の古木だというから泣けるではないか。

   
 
  使い込まれた仕込み桶
   
   
 

<杉樽の役割。――流通という面から見ると>

桶・樽は11世紀頃に中国(宋)との貿易によって日本に伝えられたそうだが、交易の舞台だった北部九州の一部のみで使われた時期がずいぶんと長く、全国に普及するまで、実に400〜500年もかかっている。

日常生活で水気のあるものを入れる木製容器といえば、それまでは曲げモノの器だったわけだが、スギダラ秋田ツアーでも見学したように、曲げわっぱは柾目の薄い板を先につくり、それを丸めてつくるものだから、木の幹の太さが器の最大限の深さにしかならない。そのうえ、そんなに頑丈とはいえない。それに対して、板材を縦方向に並べて周囲を竹のタガで締め、底(あるいは蓋)をはめこむ桶・樽なら、10石(3600リットル)以上入る大型の容器もつくれる(記録を見ると100石桶というのもある! 巨大な桶に落ちて亡くなる人もいたらしい)。

では、なぜ便利な桶・樽の普及が遅れたのか。そこが面白いところだ。

第一の理由は、まだ大容量の桶・樽を必要とするほど生産活動が盛んではなかった、ということ。戦が続いて世の中が安定していなかったし、米の収穫も乏しかった。人々がギリギリの状態で暮らしていればモノのやりとりも少量で、地域の中だけで事足りてしまう。

17世紀以降、爆発的に桶・樽が広まっていったのは、幕藩体制が確立して、民衆の生活力もアップし、地方の勢いも増してきた頃とぴったり一致する。それは町づくりが盛んになってきた時期、つまり、建材としての杉が大量に出回った時期でもある。杉は、何と言ってもスパッと割れて板材にしやすい。軽い、発育が早い。そんなわけで、建設が盛んになればなるほど需要が高まり、全国で杉の植林が進んだ。

ここで今回、私としてはもう一つ新しい発見があった。日本人は「節がない」「目が真っ直ぐに通っている」木を好むが、それは古代からずっと「割る」加工方法がメインだったからこそ刷り込まれた感覚なのではないか、ということ。割れやすい(加工が楽な)木がふんだんにあったからでもあると思うが、日本で縦挽きのノコギリの導入されるのは遅く、17世紀に入ってからなのである。

前述の本『杉のきた道』の中で天竜の杉コケラ職人が、こんなことを言っている。

「ヒノキは割りにくいから使わないのであって、高価なためではない」

おー、そうか! これは、2005年のスギダラ秋田ツアーと翌年の群馬ツアーの両方に参加した人ならわかるだろう。秋田で私たちが枝打ちをしたのは杉林だったが、群馬では枝打ちができる適当な杉林がなくてヒノキ林に入った(気づかなかった人もいたでしょ?)。斜面が急で足場が悪かったこともあるけれど、枝を一つ落とすにも力がいって、「去年の方がずっと楽だったなぁ」と思ったのは私だけではないと思う。それだけヒノキは杉よりも扱いにくい。

そんな風にいろんな背景が実にうまーく重なりあって、杉の桶・樽は庶民の生活に深く根ざしていくようになるのだ。

   
   
  吉野杉の樽丸材工場。最初に丸太を7等分し、それをさらに割っていく   樽のカーブに合わせて(年輪に沿って)カンナで仕上げられた樽丸材
   
 
  スギダラ群馬ツアーでは、森林組合の方の指導のもと、ヒノキの枝打ちを体験した
   
 
   
 

たくさん入る、蓋をして運べる、輸送の途中で壊れる心配がない、軽い、ということで生まれたのが皆さんおなじみの四斗樽。なぜ4という中途半端な数なのか、というと、輸送用の馬に積める荷物の重さに制約があったから。馬の背に四斗樽を2つ振り分けにすると制限いっぱいだったのである。

樽の出現によって、近畿地方で仕込まれた酒が、最初は陸路で、次第に海路を使って江戸に大量に運ばれるようになる。説明がくどくなるが、京都周辺に造り酒屋が多いのは、水がいいからというよりは、その昔、酒造りを朝廷が管理していたからだ。

江戸向けの「下り酒」が好調になるにつれ、海に近い伊丹や灘に酒造の中心が移っていき、その繁栄と共に、酒樽用の樽丸材を供給した吉野の林業が大いに潤った。「桶・樽は吉野杉」と言われ、吉野では樽丸材そのものが「伊丹味(いたみ)」と呼ばれるほどだったという。運搬用の樽は、辺材(白太)と心材(赤身)の境目からつくられた板目で、外が白く内が淡紅色の「内稀(うちまれ)」が最上級品とされた。下り酒は、船で揺られて運ばれる間に杉の香りがついて味がよくなる、と江戸では大人気だったそうだ。

この「香」というのも杉と酒の関係を語る上で重要なポイントだ。酒には杉の香りがつき、樽には酒の香りが染みこむ。下り酒の空き樽は酒の香りが移って良しとされ、空樽→明樽とめでたく名前を変えて、酢造りに再利用された。醤油造りでは、真新しい杉樽は木香が強すぎるから、という意味で、一度酒を入れた明樽が重宝された。江戸の町には「樽買い」「樽拾い」が空いた樽を回収し「明樽屋」がそれを販売する、というリサイクルのシステムが出来上がっていたのである。酢、醤油、味噌などの熟成、運搬に活躍した明樽は、何度か繰り返し使われ、サイズによってはいったんバラされて一回り小さく削り直して、もう一度タガをはめて使うこともあった。

再利用できる、ということと、数回使うと自然に傷んで新しいものと取り替えられる、という消費の仕方は、日本人の感覚にも合っていたし、杉のサイクルとも合っていたようだ。もちろん、林業の経営の都合にも合っていた。江戸時代は、生産と消費、モノと自然の循環のバランスが噛み合った幸せな時期だった。
   
 
   
 

いい酒のできるところには、いい杉がある。そういえば、先号で特集された鳥取の智頭には「杉の雫」という大吟醸があるそうだ。町の面積の大部分を占める杉の山に降る雨が、杉の根っこや土を通して清らかに濾過され、その水を使っておいしい酒がつくられる、という意味がその名に込められているという。なんて素晴らしい! そうだよね、お酒は米と水と酵母でできる、って言うけれど、その地域の気候風土の中で育まれた自然からの恵みが、人の力を介して渾然一体となって、はじめて「いい酒」になるに違いない。

大昔の人は、酒に酔った状態を神の力による不思議な神秘体験だと考え、酒は神からの授かり物だとされた。下り酒の杉の香りがあれほど好まれたのも、酒造の神である大神(おおみわ)神社のご神体、三輪山の神木が杉であるから、ということが、もしかしたら関係あったかもしれない。智頭特集のリポートにもあったように、杉の葉を玉にした「酒林(さかばやし)」が酒造店の軒先に吊されるのは、今年もいい酒ができました、と酒の神に報告し、祀る意味があるのだ。

お酒を飲むという行為は、神様を仲立ちとして人と人との結束を高める集団儀礼だった。だから、♪ひとり酒〜、手酌酒〜というのはダメなのですよ。自然の恵みに感謝の気持ちを込めて、仲間といっしょに神秘的酩酊状態に浸りましょう。
   
   
   
  参考文献/『日本酒のフォークロア』川口謙三著(三一書房)、『日本人は何を食べてきたのか』永山久夫監修(青春出版社)、『中埜家文書にみる酢造りの歴史と文化』(日本福祉大学知多半島総合研究所)、『桶と樽・脇役の日本史』小泉和子編(法政大学出版局)、『にっぽん蔵元名人記』勝谷誠彦著(講談社)、『職人芸の科学・杜氏の技』義本岳宏著(恒星出版)
   
   
 
 
  <ながまち・みわこ>ライター
1965年横浜生まれ。ムサ美の造形学部でインテリアデザインを専攻。
雑誌編集者を経て97年にライターとして独立。
建築、デザイン、 暮らしの垣根を越えて執筆活動を展開中。
特に日本の風土や暮らしが育んだモノやかたちに興味あり
   
   
   
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