十月杉話

いとおしくもこわいすぎ

文/ 武田光史

 

 

 

 杉の香りから、僕の匂いの記憶は始まる。

無意識の下には、きっと他の匂いもあるに違いないのだが、いつでも思い出せるのは杉の板の香りだ。

小学校に上がる前の昭和20年代後半、宮崎県北部の門川の農家に、母と二人で間借りをして住んでいた。その家の隣に、九州木産という製材所の広大な貯木場があった。

そこには製材を乾燥させるために、杉の板材を井桁に組んで積み上げた無数の直方体の塔があった。幼い僕らにとって、そこは禁断の場所であり、最高の遊び場であり、摩天楼だった。風通しを良くするためにある、杉板の間の2cmほどの隙間は、子供の手と足を差し込むのにちょうど良く、垂直の壁をよじ登り、井桁の中の薄暗い空間へ降りていった。それは秘密基地であり、杉の板の格子から漏れる縞模様の日光と、杉の香りが、僕を柔らかくつつんでくれた。おが屑に被われた地面に足を投げ出して座り、四角く切り取られた九州の青空を、いつまでも見上げていた。

貯木場は国鉄の駅に隣接していて、鉄道の軌道やトロッコのレールの上を、平均台の上でバランスをとるように、友達とあるいは一人で、どこまで遠く歩けるかを競争した。レールの上はピカピカと銀色に光っていて、滑り易いことを知った。すぐに錆びることも。

製材工場では手拭いで鉢巻をした半裸の男達が、巨大な丸鋸やベルト鋸を魔法のように使って、杉の丸太から水々しい板を次々に切りだしていた。湿ったおが屑が宙に舞い、男達の肩に降り積もり地表を被うのを、うっとりと魅入るのだった。

ある冬の夜、貯木場が大火になった。

夜空が炎で焦がされて真っ赤に染まり、それよりもっと鮮やかな赤い腰巻きが、農家の藁葺きの屋根に突き立てられた竹竿にくくりつけられて、激しい火災風のなかに翻っていた。寒さと、恐ろしさと、妖しい美しさに、震えながら、僕はそれを見つめていた。

それは家主のお婆さんの腰巻きだった。腰巻きを屋根に掲げると、火事の延焼を防ぐことが出来る、と教わった。家は無事だった。僕の手元に腰巻きは無いけれど、今でもそれを信じている。

後年知った事だが、その夜空を焦がす炎は、門川町内は勿論のこと、隣の富高(現日向市)や土々呂からも見え、九州木産の従業員は一人残らず火を消すために、徒歩や自転車で現場に駆けつけたという。

きっと全焼したであろう、焼け跡の記憶も、その後の貯木場の記憶も、全く無い。その夜の出来事でぷっつり切れている。

門川の前は東郷の山陰(やまげ)という、日中の半分は山に太陽が隠れてしまう山村に住んでいたので、杉の木に囲まれて幼年時代を過ごしたはずだが、杉の木を意識したのはずっと後になる。サーモンピンクの切り身を先に知って、銀色の鮭の全貌を後から知るようなものだ。

高校3年生の夏、宮崎の清武に同級生達とハイキングに出かけたことがある。途中でクラスの女子学生の実家に休憩のために立ち寄り、縁側に腰掛けて、冷たい水と生姜や茄子の味噌漬をいただいた。彼女の家は大きな農家で、見上げるような背の高い立派な杉林に囲われていて、夏の午後の日差しの中でも、僕たちの居た縁側は薄暗かった。杉を、木と意識して眺めたのは、それが最初だ。東京の大学へ進学した彼女が自殺したと、風の便りに知ったとき、彼女のことではなく、あの鬱蒼とした杉の木立を想い出した。

1991年の10月はじめ、大分の湯布院から熊本の八代まで、レンタカーでドライブした。完成したばかりの『くまもとアートポリス』の山本理顕設計の『保田窪第一団地』と、伊東豊雄設計の『八代市立博物館・未来の森ミュージアム』を見学するのが目的だった。直前の9月27日に九州を襲った、台風19号は、猛烈な風台風だった。阿蘇では最大瞬間風速60.9mを記録し、青森のリンゴに壊滅的な被害を与えながら北海道に再上陸して、全国で死者62名、負傷者1499名を出した。九重を経由して小国に至る道中、山はこれまで見た事もない姿を晒していた。おびただしい量の風倒木である。風の通り道にあった山の杉は、1本残らず同じ方向に、モヤシのように脆くもなぎ倒されている。全滅である。あまりの光景に立ちすくんだ。

風倒木は使えない。強烈な力でねじ曲げられ、折り倒された木は繊維が伸び切り、組織が壊れて力を受けられない。それは死体に見えた。製材所に横たわっている皮付きの杉の丸太を見ても、死体だと思ったことはない。無差別殺戮の壮絶な現場を目撃したようだった。風倒木の処理は非常に危険な労働だ。土から切り離すためにチェーンソウを入れた時、全く思いがけない方向に、木が跳ねるという。そのために少なからずの作業員の方々が亡くなった、と聞いた。

熊本市に近づくと家々の屋根が青い、不思議な景色が現れた。瓦が吹き飛ばされて、ブルーシートで屋根が被われているのだった。この時、日本中の瓦とブルーシートの在庫が払底した。

1995年の阪神大震災の後、神戸の町を見たときに、船酔いのような症状になった事がある。電車の車窓から、垂直と水平が失われた都市を眺めていると、三半規管に異常をきたしたような軽い吐き気を覚えた。自然の力を見せつけられた2つの光景は、超現実的な美しさをも秘めていた事を、僕は否定しない。

熊本訪問のこの時、『くまもとアートポリス』の仕事を自分がすることになろうとは、夢にも思っていなかった。

それから3年後の1994年の8月、僕は熊本の泉村(現八代市泉町)にいた。それまで小さな住宅程度しか設計したことのない僕にとって、『くまもとアートポリス』のプロジェクトは憧れの対象ではあっても、遥に遠い夢の世界だった。その新しいプロジェクトの依頼を受け泉村にいることは、信じ難い幸運に恵まれたとしか言いようがない。

泉村は山深い。宮崎県境の平家落人部落で知られる五家荘もこの村の領域の中にある。九州山脈の分水嶺を隔てた日向灘側は椎葉村で、この2つの落人部落は歴史的にも文化的にも一対の集落である。泉村は林業の村でもある。村のセンターを作るために、数日間にわたって、役場の担当者の方が村中を案内してくださった。その面積の94%が山間部という泉村に平地は無いに等しい。45°以上の急傾斜の山々には、果てしなく杉が植林され、昼なお暗い。日本の戦後復興に大いに貢献し、さぞかし活況を呈したであろう山々は、今は世の中から取り残されたように、ひっそりと静まり返っている。この村に、それから約3年をかけて、地元産の杉材を使いながら、『ふれあいセンターいずみ』の建設にたずさわることになる。初めて、杉を本格的に使った、大型の建築の設計だった。

この仕事で、僕は杉の素晴らしさと怖さを、骨身に凍みるほど、思い知らされることになる。この顛末は、話が長くなるので、またの機会に書かせていただこう。

杉に対して、ネガティブな事を書くつもりは無い。杉の強い記憶だけである。杉は、僕にはいつも『懐かしくも怖いもの』なのだ。

 

 
 

 
 


 

 

 

<たけだ・こうじ> 建築家

 

 

  

 

   
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