特集 100号目前、これまでを振り返る
  10年経って見えて来たもの
文・写真/ 南雲勝志
   
 

2000年を挟み、前後15年ほどデザインに関わってきた。以前どこかで書いたが20世紀末から21世紀への移行は大きな節目だったと思う。

20世紀前半は戦争を何度か体験し、1945年に敗戦。復興を目指しベビーブーム、オリンピックを契機に高度成長が始まり、バブル景気とその崩壊、最後は失われた10年で閉じた。世紀の境目は社会の変わり目でもあった。戦後生まれたデザイン産業もそれと連動してきた。そして21世紀へ移行すると成長の限界、少子高齢、環境問題などの大きな課題を抱えることになる。経済の低迷、終身雇用神話も崩れ、我々の本当に必要なものは何か、不必要なものは何か、改めて問い正す機運が生まれた。 スギダラという思想が生まれようとしていたのもそれと無関係ではなく、変えて行かなければならないという気持ちが高まってきた21世紀初頭であった。そして東北大震災によって価値観の大きな変換を突きつけられた。2000年以降の自分の中の変化を杉と関連したデザインと共に振り返ってみる。

     
 

20世紀末から感じていた日本のデザインの目指す方向性、これは海外のデザインの模倣からの脱却といってもいいのが、経済と連動した商品づくりに限界を感じていた。その頃はまだ今のような地域性は余り意識していなかったが、自分のなかではパーソナルな家具というデザインからパブリックなデザインへの移行期でもあった。それが2000年から参加した日向市のプロジェクト、「木の文化のまちづくり」であった。塩見橋の手摺りで初めて市民との協働を体験する。公共空間の木を使ったデザインはここからスタートした。

   
  日向市塩見橋 中学生による杉手摺りメンテ(2001~)   富高小学校課外授業から生まれた移動式夢空間(2004)
 

同時に市内街区、駅前広場の整備で杉を使ったプロダクトをデザイン、これもメンテナンスありきの前提であった。そして小学生を対象にした、まちづくり課外授業、市民参加型のデザインを通じ、僕のデザインの意識は大きく変わっていく。日向とのまちづくりの関わりはこれから10年以上続くことになる。

幼少期の思いと日向の取り組みが相乗的に僕を駆り立てた。そしてデザインに大切なもの、それはカタチだけではなく人の思いを作り出す事に気付く。公共空間に木を使うということ、それは紛れもなくノーメンテナンスから手間のかかる事から生まれるもの、そして市民協働で生まれるカタチであった。

   
  日向市駅東口駅広整備(2007)   日向市駅交流広場(2009)
 

その思いは家具のデザインに顕著に表れた。もう家具なんかいらない、人が使える道具、「台」があればいい。もともと日本には家の道具としての家具は存在したが、椅子やテーブルという概念はなかった、戦後のダイニングセットからである。日本人は台や段差を上手く利用し、可変性を持った空間利用に長けていたのだ。(このコンセプト自体は1994年に発表したproject candyというブランドで確立したのも。)その象徴が2001年のon-hot展の大杉であり、ほぼ同時に発表した家具とは呼べないSUGIKOに至る。低座、台としての可変性、ゴミにならず無駄がない等、自分にとっては究極のデザインだったが余り相手にされない。そして2002年、もう少し分かりやすくデザインしたのがSUGITAだ。家具でこのようなデザインが生まれたのは偶然ではなかった。ひとつは高度成長以降忘れ去られた日本人と木のいい関係をもう一度取り戻す事、それは社会の歪みをもう一度確認し、見直すことでもあり、その歪みを修正する事でより正常な社会に向かうはず、という思いからであった。若杉さんらとスギダラをつくったのはこの頃であり、2004年5月に正式に結成する事になる。 (参照:スギダラ前夜

   
 

SUGIKO (2001)

  SUGITA (2002)
 

デザインの興味は単体としてのデザインから魅力的な地域をいかにつくるか、に移っていく。そのために人や素材とどう関わり新しい価値観をつくるか、であった。そして日向での気付きは上崎橋プロジェクトでも実践した。戸数18軒という限界集落の未来に向けたプロジェクトであった。2006年には10回以上も上崎地区の事を書いている。それだけここで体験した地域との関わりは大きかった。後に「かみざき物語り その後」と題し統括を書いたが、地域が生き残るためのヒントを上崎でずいぶん教えて貰った。行政、住民、地域の技術、そしてスギダラ。それは橋の完成に伴った地域の記憶づくりでもあった。その取り組みは地域を考える上でずっと僕の中に残っている。 その後「地域が生き延びるために」という連載はこの経験を元に、特に弱い地域がどうやって生き残っていくべきかということを考察し、より広めて行きたいという思いからであった。今年も3月下旬の菜の花の時期、手摺り磨きイベントが無事終了したという知らせが届いた。こうなるともうメンテナンスイベントではなく、立派な地域祭りである。

   
  上崎橋:住民による高覧取付(2007)   上崎橋:高覧メンテナンス(2012)
 

また同時にこんな事も考え初めていた。スギダラから杉をとったら何が残るか? という問いである。月間杉21号「スギダラはどこに向かうのか?」、杉がすべてではない。むしろ杉抜きでスギダラを語ることが本質ではないかと。杉は素材のひとつにすぎない。ただどこにでもある日本固有の木であり、いかに地域が自立し生きていくか? ということをとても分かり安く語りやすい素材だったのだと。

2003年より関わった宮崎県油津港湾事務所による堀川運河の整備は2008年に一段落するが、2006年からは飫肥杉の普及という目的で日南市のまちづくりや家具の商品開発へと向かい、obisugi-designへと繋がっていった。 行政から依頼の商品開発は初めてであった。日南発、日南ならでは出来ないデザイン、市民に親しまれる家具を目指すが、商品開発はそう簡単ではない。単なる商品づくりではなく、まちづくりとの連動や地域発信のひとつの力となるべくデザインと捉えてきた。現在、日南市にとってより発展的な可能性のあり、広く市民に親しまれる小屋シリーズの最終形を開発途中である。こちらもひとつのフェーズを終えようとしている。(参照:平成日南飫肥杉物語り その1

   
  obisugi-design sugikara stool(2008)   obisugi-design koyatten(2013)
 

2007年、有楽町駅前広場の整備で杉を使い出す。東京では初めてだった。現場の仮囲いから駅前広場のシェルター、そして地下道までその範囲は意外と広かった。もしかしたら都市こそ杉がとても有効に使えるのではないかという思いさえ生まれた。 南町奉行所跡地であるその場所で、当時の生産地であった埼玉西川杉を用いた。杉という素材を通して都心の人々に江戸時代の記憶と共に地域の繋がりを再認識して貰おうという試みであった。 (参考:有楽杉

2010年から関わった姫路駅周辺再開発のプロジェクト、素材のデザインコンセプトは鉄と木と石、これは姫路城の素材そのものである。その素材のコラボレーションは他のどの現場より、ダイナミックな形で表れた。それを地場の素材でということで、鉄は瀬戸内工業地帯、石は小豆島、そして木は姫路産杉にスポットがあたる。使用量の多さもあり、その供給は以外と簡単ではなかった。県も協力し素晴らしい姫路市産の杉が見つかった。その地もまた安富という限界集落であった。巨大都市姫路の駅前で姫路市の山の素材を使用することはデザインのみならず、山や農と都市を結ぶこれからのまちづくりの可能性と、整備で終わらない市民活動とリンクするきっかけをつくりつつある。(参考:安富町の杉

   
  有楽町駅前広場整備(2007)   姫路駅北広場整備。大手前から見る眺望デッキ(2013)
 

さて、地元新潟の越後杉に目を向け始めたのはようやく2007年頃から。当時宮崎や吉野、秋田といった全国各地の先進的な取組に比べ、越後杉は先進性も、話題性もなかった。しかしスギダラを結成するきっかけでもあった出身地の杉を無視するわけにはいかないと思い始めていた。中に目を向けると盛り上がっていないと思っていたのは僕の想像で、そこにはそれなりのやり方で頑張っている人たちも見えてくる。 2007年に「越後杉立ち上げ計画」、そして2008年には地元南魚沼にも足を運ぶ。越後杉も頑張るんジャー!、2010年、地域にとって必要なデザインなど徐々に故郷にも目を向けていく機会が増えた。若杉さん始め、コアーメンバーがその下地づくりに協力してくれた。

宮崎でスタートした杉との関わりは10年経って徐々に北上していくことになる。

     
 

2011年、東日本大震災。市街部のほぼ全域が瓦礫と化した大槌町において、東京大学の大槌復興支援チームと共に被災者が集まれる場所を「屋台のある広場」としてデザインした。すべてが消え去ったとき、最も大切なものは何か?それは辛さや悩み、そして夢を語ることの出来る最低限の居場所だった。 この時の体験はその後の価値観に大きく影響する。最低限必要なものは?その価値観は実は終戦まで日本の農山村が持っていた価値観と重なった。ヤタイ広場-まさにみんなの居場所づくりであった。それは我々にもっとも大切なもの、必要なものは何か?を改めて思い返す事でもあった。(参照:「居酒屋ドン」がオープンするまで

翌年、同じ岩手県で杉のまち日本一を目指す岩手県住田町で農商工連携のプロジェクトとしてヤタイのデザインを担当。地域素材を用い、地域食材の発信や祭りなどのイベントに活躍している。地域の素材は売るだけでなく、その地域で使いこなされることで本来の価値が生まれる。特筆すべきはその製作において、引退した気仙大工がその素晴らしい技術で作り上げたことである。ここでも人の居場所の大切さと価値を痛感した。(参照:「新しい年に向けて

   
  被災者のためのヤタイ広場(2011)   住田町ヤタイ開発 製作は元気仙大工(2012)
  また翌年の平泉中学校で行った「みんなでつくるん台」プロジェクトは、新校舎の交流ホール交流ホールを使いこなすためのオリジナル家具のデザイン・製作のワークショップであった。生徒達が自ら使い方を考え、デザインを練り、県産材を使った三種類の台を実現させる。2年生によってつくられたその台は、その後毎年3月に下級生に引き継がれ、デザインした思い、メンテナンスの方法、使い方の指導と共に台々引き継がれている。地域独自のアイディンティティは若者と地場の技術で見事に平泉に定着しつつある。

これら一連の東北での経験は、保守的で慎重で、それゆえ大切なものを失わずにいた地域性のおかげで、その土地土地の歴史、風習、景観のすばらしさを改めて再認識することが出来た。東北の風景は本当に美しい。まさに日本のふるさとである。
   
 

昨年は秋田西口バスターミナルが完成、秋田杉ツアーから始まり、コンペやセミナーなど数年に及んだ試みを経て、長年のスギダラ秋田の思いが形になった。他のどこの杉でもなく、秋田杉ならでは出来ない美しさと表情を持って秋田駅前に存在させるか、それは秋田市民の居場所づくりでもあり、秋田らしさの地域性の表現でもあった。その解決方法としての防腐処理や金属とのハイブリット、また照明による杉の見せ方など、過去のデザインの手法がとても役に立った。デザインから完成まで一年ちょっとの短期間ではあったが設計チーム、施工チームの総力戦でもあった。その存在が少しずつまちに浸透し、広まっていくことを願っている。(参考:秋田西口バスターミナル 基本設計を振り返って

   
  秋田駅西口バスターミナル:遠景(2013)   秋田駅西口バスターミナル:冬
 

佐渡相川の近代化遺産の整備に引き続き、2011年から文化的景観に指定された旧砂金山西三川笹川集落の整備に関わる。砂金山の閉山後、その従事者達が農業を営みながらそのままその地に住み続け、その生活と集落形態はほぼ現在も引き継がれている。我々の役割は地域の思いを探りながら、ものをつくるというよりもそこに生業を持って住む人々と何を共有していけるかということであり、これからも継続できる仕組みつくりであった。形として表れたのは案山子型サインであった。それは単なるサインではなく、出来るまでのプロセス、そして作り方、取り付けやメンテを含めた守り方、つまり笹川流の確立でもあり、それを表現したサインそのものなのである。 (参照:崎谷浩一郎「佐渡の話2」)

   
 

西笹川集落のための解説サイン(2012)

  笹川集落のための誘導サイン「タンジェント」(2013)
 

そして今年、2010年から関わって来た南魚沼市図書館が完成する。スーパーマーケットから図書館へのコンバージョンデザインで、建っては壊しではない地域にとって愛される施設に転換できるのではないかと直感した。そしてそもそもの依頼のきっかけは「新日向市本」 であったことも運命的なものを感じた。やっぱり繋がっている。

地域の活性化とか、地場産材を活かしたデザインとかいいながら、全国各地をぐるぐると廻ってきた。しかし新潟県内では新潟市や佐渡島での仕事はいくつか手がけたが、故郷の仕事は初めてであった。まさに今までやってきたことの総力を上げ、自分の出来る事はすべてやろうと誓った。デザインのクオリティ、地域らしさの表現、事業間調整など大変な道のりではあった。その中で木材ワーキング、地元小学生との木材ワークショップなど、各地でやってきたことをようやく地元で出来た喜びは大きかった。地域は使う人が主人公、最初で最後の仕事にならないよう、きっかけの一つとなることを心がけた。昨年の長野栄村ツアーも感じた事であるが、地域の魅力は深く、簡単に把握できない。しかし一つのきっかけでようやく見えて来るものがある事もまた事実である。オールジャパンではなくそこだけの大切な価値づくり。今ようやくその裾野にたどり着けたような気がしている。 大袈裟でなく、小さくとも強く地域に根付き、未来に歴史を作っていくようなデザインをして行きたいと思っている。そしてそれはごく身近なところにあることを再認識している。

   
  2014年6月にオープンする南魚沼市図書館(2014)   ギャラリースペースの根曲がり杉ベンチ(2014)
  駆け足で2000年からを振り返ってきたが、その時々のプロジェクトやそこから生まれたデザインはどれも記憶に残るものである。その背景には林業や農業、漁業などの経済や政策に振り回されてきた一次産業の悲鳴も聞こえてくる。しかし、もう振り回されるのはやめよう。誰になんと言われようが自分達の確固たる価値観を前提に自信を持って行けば良いのだ。(参照:日本の森林が訴えていること

     
   

おわりに。

ここ一年、月間杉で「私の原体験」と題し、幼少期の記憶を綴っている。一度封印したつもりの思い出や体験、それは掛け替えのない自分の財産であった。もののあわれや、はかなさや、変化して行く自然の美しさなどへの感覚やまなざしはまさに日本人ならではの情緒的価値観である。親や先人達から受け継いだそんな価値観を自分の中でも大切にし、これからも残し、伝えて行きたいという思いからである。それもデザインなのである。

月間杉はそんな思いを99回に渡り発信し続けてくれた。僕は月間杉の自分の記事をブログにまとめてある。これを見るとその年、その時点でどんなことを考えていたか分かる。改めて文章で書き留めることの大切さを月間杉は教えてくれた。初めは文章は苦手であったが、月間杉のおかげで何となく慣れてしまった。文才はあまりないが、それでも書かないとこの記録は残らなかった。

その発刊は2005年3月初めての吉野ツアーの帰りの電車で決まった。だが先の事など何も考えていない、暗中模索のスタートだった。その頃は編集も自分でやっていた。勢いでやっていたうちはいいが、段々と負担になってくる。そんなに簡単ではなかった。こりゃ駄目だと思った若杉さんが内田洋行の若者に編集を代わるよう指示してくれた。正直「助かった。」と思った。僕が担当したのは36号くらいまでで、その後は堂元さんが中心となって編集を担当してくれた。そのおかげでそれから99号まで続くことになるとは。堂元さんがいなかったら途中で終わっていたと思う。いまは出産に向けて休暇中でその間倉内さんが頑張ってくれている。いつもありがとう。そして月刊杉の設立主旨「月間杉とは」は今読んでもうんうんとうなずける。内田みえさんの名言である。
   
   
   
  ● <なぐも・かつし>  デザイナー
ナグモデザイン事務所代表。新潟県六日町生まれ。
家具や景観プロダクトを中心に活動。最近はひとやまちづくりを通したデザインに奮闘。
著書『デザイン図鑑+ナグモノガタリ』(ラトルズ)など。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部
facebook:https://www.facebook.com/katsushi.nagumo
エンジニアアーキテクト協会 会員
月刊杉web単行本『かみざき物語り』(共著):http://m-sugi.com/books/books_kamizaki.htm
月刊杉web単行本『杉スツール100選』:http://www.m-sugi.com/books/books_stool.htm
月刊杉web単行本『2007-2009』:http://www.m-sugi.com/books/books_nagumo2.htm
   

 

 

 
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