連載
  スギと文学/その46 『望みは何と訊かれたら』 小池真理子
文/ 石田紀佳
   
 
  秋の夜長の読書でなくて、残暑の昼下がりに体を動かすのがだるくて本読みにふけることがある。
  枕にできるような分厚い小説をまずは椅子からはじめて、いちばん暑いときは杉の床の上にころがって、そして最後は麻布をかけたソファーに寝て胸の上に本をのせる。最初は麻布と接した背中はひんやりしているが、読み終わるころにはびっしょり。年に一度はこういうことをしている。
  今年は、「望みは何と訊かれたら」の読了後、呆然として汗だくの背中をソファーにつけたまましばらくおきあがれず、蝉の声をきいていた。気をとりなおして座って、夕暮れていく庭をながめて、ひさしぶりにタバコを吸った。
  何年ぶりか忘れるほど吸っていなかったせいか、毛細血管のすみずみにニコチンがめぐった感じがリアルで、手足がふるえた。はじめてタバコを吸ったときもこんなだったか、とあきれながらも、一本を吸い終えて立ち上がるとめまいまで。うがいをしても口の中が苦さがとれず、タバコの常習癖はもうつかないだろうと確信した。
  この小説に不満があるとしたら、久しぶりに再会した老年にかかる男女がタバコを双方とも吸わなくなっていたシーン。せめて男には吸っていてほしかった。でもあんなにタバコを吸うシーンがあったのに、ふたりともやめていた、ということに時代の経過が出ているのかもしれない。
   
  日経新聞で小池真理子さんの随筆を読んだのがきっかけで、この本にいたった。推理小説やミステリーのたぐいはほとんど読んでこなかったので、この人気作家をわたしは知らなかった。随筆は「孤独死」についてで、私はとても共感し、言葉運びの美しさにもひかれた。
  そしてこのタイトル「「望みは何と訊かれたら」と表紙絵の青い蝶の羽にひかれて、残暑の読書にあてたのだ。
   
  杉は杉木立として、主人公が過激派のアジトに入るときと逃げるときに出てくる。
  今の団塊世代の学生運動が終盤にかかったころが主な舞台で、その世代である作者はどうしてもそのころに自分をゆさぶった「なにか」を書きたいのだろう。その時代をテーマにした作品がいくつかあるらしく「望みは何と訊かれたら」はそのひとつらしい。
   
  私とは、ひとまわり以上世代が違うし、とくに私の世代は(個人個人は違うけど)のうてんきでノンポリばかりだから、彼らを理解しようとするなど笑止千万だけど、でも多感な時代、多感だが未熟だったころに身に受けたできごとを、どう解釈してこれからとつなげるか、という問題は共通するはずだ。
  20代の日々にそれなりに没頭したが、ある日ふと崩壊寸前の自分に気づき、その心身を守り、また社会に馴染むために封印したりケリをつけたことに、顔をそむけずもういちど意味をとらえなおす。そこからまたなにかがはじまるのかもしれない。
   
  長くなるが、ふたつの部分だけ引用しよう。
   
 
   
  ………わたしがあれほど素直に、自意識も自尊心もすべて放り出したところで身を委ね、裸になることができた相手は、生まれてこのかた、彼しかいない。
 

 あの日々は、とてつもなく不健康だった。不健康だったが、とてもつもなく幸福だった。

   
 
   
 

………

   時々、思うことがある。
   人々は、本当のところ、何を考え、何を想い、何を欲しがり、何にこだわりながら生きているのだろう、と。
   仕事で人と待ち合わせていたカフェに早くついて時間をつぶしている時や、電車に乗って、見るともなく乗客を眺めている時、信号待ちをしているタクシーの中から、通りを行き交う人々をぼんやり見ている時。あるいは、盛大だけれど退屈なパーティ会場の片隅などで、わたしはふとそんなことを考える。
   そこそこの出世、そこそこの富と名誉。平凡だが波風の立たない社会生活と家庭生活。表面上の恙ない人間関係。子供の健やかな成長、夫婦の安泰、老後の保障。永遠の若さ、美しさ、人間ドッグの後に出てくる、惚れ惚れとするような数値。痩せること、異性にもてること、恵まれた結婚をすること、いい家に住むこと……。
   あればあったでかまなわない。もちろん歓迎もする。だが、そんなものは結局のところ、どうだっていい、本当に欲しいものは他にあるのだ、と密かに考えているわたしのような人間は、いったいどのくらい、いるのだろう。
   わたしは若かったころから、血の通ったもの、そこから生まれてくる真の情熱や力、人生の本質的なことにしか関心がもてなかった。今もそれは変わっていない。
   どれほど美しい風景やおいしい食べ物、優雅な暮らし……さらに言えば、美しい音楽や美しい絵、世界が認めるすぐれた文化だの芸術だの、といったものが周辺に転がっていたとしても……生きる上での、人も羨む「かたち」が十全に整えられていたのだとしても……わたしの中から、得体の知れないざわめきが消えることはなかった。
   四六時中、欲求不満に苛まれていた、というわけではない。表向きの人生が充たされれば充たされるほど不満を抱く女、という役柄を演じて似合っていたのは、女優のジャンヌ・モローだが、それとも異なる。
   わたしは、生きているものが好きだったし、今もそうだ。文字通りの「モノ」、価値があると世間一般に信じこまされている何か、には基本的に関心がない。脈々と血が通い、息づいているものだけが、わたしの興味をひく。
   旅先で見る美しい風景も、過ぎてしまえば、ただの記憶の中の映像でしかない。通りいっぺんの愛の言葉、愛の行為も同様だ。そんなものはたちどころに、泡のごとく消えてしまう。
   自分自身が「確かに生きた」という痕跡のない記憶には、意味が残らない。つまるところ、わたしが興味をそそられてきたのは、ものごとの本質、人間性の本質だけだったのだ。
   本質が見えてくると、無関心になれなくなる。思わず近づいていって、見て、触れて、感じて、自分のものにしたくてたまらなくなる。
   
   
   
   
  ●<いしだ・のりか> フリーランスキュレ−タ−
1965年京都生まれ、金沢にて小学2年時まで杉の校舎で杉の机と椅子に触れる。
「人と自然とものづくり」をキーワードに「手仕事」を執筆や展覧会企画などで紹介。
近著:「藍から青へ 自然の産物と手工芸」建築資料出版社
草虫暦:http://xusamusi.blog121.fc2.com/
『杉暦』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_nori.htm
『小さな杉暦』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_nori2.htm
羊毛手紡ぎ雑誌「spinnuts」(スピンハウスポンタ)に「庭木の恵み」を連載。
「マーマーマガジン」(mmbooks)に新連載「魔女入門」スタート。
   
 
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