短期連載
  領域を超えて 〜「みんなが使う駅」で木材を活用する〜 第2回
文/写真 川西康之 
   
 
 
 
*領域を超えて 第1回はこちら
   
  2-1 デンマーク王国
   
   デンマークという小さな国がある。家具や照明など良いデザインを世界中に送り出し、アンデルセンの童話やレゴブロック、教育や福祉が充実して幸せ度の高い国、としてご存じの方も多いだろう。グリーンランドやフォロー諸島という自治領を除くと、デンマークの国土面積は北海道の半分程度の面積しかない。
   
   10年前の夏、学生だった私は、コペンハーゲン中央駅に降り立った。木造のドームに覆われた、あたたかな駅舎である。
   
   ホテルやカフェだけではなく、銀行や空港でも著名な家具が当たり前のように設置されている。食器から家具まで、デンマークの製品でインテリアを構成すると、すぐに一流のホテルが出来上がる。清貧を良とするデンマークの思想と、侘びを重んじる日本人の思想が合うのか、日本の住宅にデンマークの家具は馴染みやすい。
   
 
  コペンハーゲン中央駅の駅舎ドーム内部。木造の良さを活かすことは変わらないが、照明装置や商業施設は頻繁に改良されている。
   
 
   
  2-2 木を植えて危機を救った国
   
   デンマークという国が、日本で知られるようになったのは、内村鑑三の存在が大きいだろう。彼は1911年(明治44年)当時のデンマークという小さな国家の様子を「デンマルク国の話」という講義で詳細に述べている。
   
   1848年から2度に渡って、デンマークとプロセイン(現在のドイツ)とのシュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争でデンマークは敗北、ハンザ同盟で有名なLuebeckリューベックや、後に重要な軍港となるKielキールという重要都市を含む肥沃な土地を、プロセインに割譲することになった。残された現在のデンマークの大地は当時ただの荒地だった。
   
   敗戦と国土の荒廃で打ち拉がれるデンマーク人たちを「水を蓄え、木を植えることで豊かにしよう」と言い鼓舞する、Enrico Mylius Dalgas ダルガスというフランス系デンマーク人の工兵士官がいた。彼は軍人でありながら、土木学、植物学、地質学を修めており、自然が持つ果てなき力を信じていたのだ。
   
   土地を改良し、大地に水を貯め、牧草やジャガイモを植えて、風土に馴染むようノルウェー原産とスイス原産のモミの木を混ぜて植林されることが開発され、適切な間伐も行われるなど、当時としては最先端の取り組みがダルガスによって主導された。その結果、農業、林業、畜産業、漁業が豊かになり、デンマークの大地を覆った新しく広大な森は、防風林になり、農作物の生産性を上げ、軍事上も重要な意味を持つことになり、強い近代国家形成の礎となったのだ。
   
   内村鑑三がデンマークの事情を日本に紹介した1911年頃、当時すでに植民地を持たないデンマークの国内総生産は、植民地を拡大していたイギリスや日本、ドイツをはるかに上回るほどに成長していた。
   
 
  かつてデンマーク、現在はドイツのLand Schleswig-Holstein シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州の夏。
   
 
   
  2-3 自分たちの木
   
   さて、そんなデンマークに、建築や音楽、映画の王立芸術大学があり、私はその建築学科に2001年から1年間、留学する機会を得た。海軍の兵舎跡を改造したキャンパスの真ん中に、木材の工房があった。工房には職人が常駐しており、細かい都市模型から家具の実物大模型も、学生は木材を使って、自由に制作することができた。素晴らしい環境と人々の優しさに、私は酔いしれていた。
   
   デンマークにおいて、木を1本切り取って、建築や家具にしよう、という行為は非常に重大である。上述の通り、木は国家の礎なのだ。もちろん、コンセプトについては徹底した説明責任が問われる。ここは世界でも有数の開かれた民主主義国家だからだ。確かな議論は、確かなモノづくりを生む。それは、いずれ確かな自信を生み出す。
   
   デンマーク人は愛国心が強く、自信があり、幸せ満足度が高い。その背景には先祖代々、特別な存在として受け継がれて来た「木」という存在が見え隠れする。
   
 
  デンマーク王立芸術アカデミー建築学校の構内、海辺の埋立地にある海軍駐屯地跡を建物や街区もそのまま活用している。
   
 
   
  2-4 中村駅の木
   
   前回も述べたが、高知県の84%は森林である。寒いヨーロッパの北辺にあるデンマークからすれば、実に豊かで多様な自然環境に恵まれていると言えるだろう。高知県の森林は杉とヒノキが多く、戦前に人々が国家の将来や地域振興を思って投資してくれた掛け替えのない資産である。ところが現在では維持に人手と金の掛かる「お荷物」である、という見方も存在する。
   
   2010年1月下旬、リノベーション工事中の中村駅に、真新しい家具が搬入された。ところが工事中から、駅の利用者や関係する人々から、多くの猛反発が現場に寄せられた。
「こんな白い木材を駅なんかで使って、すぐに汚されるが!」
「木や竹を使った建築は飽きた。ここは田舎やき、掃除する者がおらん。都会風に、金属やガラスを使って欲しい。」
   
   無責任、無関心でありながら、批判だけは得意。自分自身や自分が住む地域については、どこまでも自信がない。都会に対する空虚な憧れ。しかし、実際には彼らはそれなりに豊かな生活を送っていて、切羽詰まって本気で困っている様子もあまりない。中村駅リノベーションは、先進国の地方都市が抱える独特の価値観との戦いだった。
   
   中村駅リノベーションでは、人の肌が触れる部分と、間接照明に関わる部分は、すべて四万十ヒノキの無節の積層材を使用している。しかも、ヒノキ本来の素材感を最大限に引き出すために、木材表面の塗装は最小限にしてある。みんなが使う空間だからこそ、最高の素材を活用しよう、という方針を私は最初から決めていた。
   
   無節のヒノキ材が、どのような価値を持っているか?は、地元の人々がいちばん良く知っているはずだ。子どもでも理解できる価値を、大人たちが知らないはずがないだろう。
   
   木を汚してはいけない、ではなく、キチンと背筋を伸ばさなければならない、という緊張感が、心地良さを生み出す。公共の空間で「落書きをするな」という文字ペーパーを壁に貼るのではなく、「ここはちょっと違うぞ」と自主的に感じて頂くこと。駅のちょっとした待ち時間の価値を変えること。これこそが、中村駅リノベーションでの四万十ヒノキの大切な役割だったのだ。
   
   2011年7月中旬現在、中村駅の四万十ヒノキは、落書きもなく、大切に使っていただいている。この時間の積み重ねが、地域の人々の記憶や誇り、次世代の自信につながって欲しい、と切に願っている。
   
 
  中村駅リノベーションは、鉄道駅の営業を休むことなく、仮設駅舎を作ることもなく工事が進められた。
 
  四万十ヒノキ無節積層材は、人の肌が触れる箇所と間接照明の部分のみ使用して、コストを調整している。
 
  工事の囲いを撤去した日、学生の乗客からは大きな歓声が上がった。大人たちの反応は、芳しくなかった。
   
   
  (第3回に続く)
   
   
   
   
  ●<かわにし・やすゆき> 
建築家 nextstations 共同主宰。1976年奈良県生まれ。千葉大学大学院自然科学研究科デザイン科学博士前期課程修了、デンマーク王立芸術アカデミー建築学校招待生、オランダ・アムステルダムの建築事務所DRFTWD office勤務、文化庁芸術家海外派遣制度にてフランス国鉄交通拠点整備研究所 (SNCF-AREP)勤務などを経て、現職。
   
 
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