短期連載
  佐渡の話 第4話 「相川の人々」
文/ 崎谷浩一郎
   
 
 
   土木構造物や公共空間のデザインに関わるものとして、当然のこととして意識されるべきことがある。それは「使う人」のことである。普通の感覚ではごく当たり前のことに感じられると思うが、案外忘れられがちなことだ。それは社会の近代化の過程で失われたものかもしれないし、その過程で実施されてきた土木を中心とする公共事業が持った性格によるものなのかもしれない。いずれにせよ、土木構造物や公共空間が、人がその地域で共存していくための共有の施設、場所である以上、それを使う人々のことは決しておざなりにはできないはずだ。
   
   我々が初めて相川の人々と対面したのは、プロジェクトがスタートしてから2ヶ月あまり経ち、年度が変わってすぐの頃だった。ある程度プランの方向性も見え始め、年度も変わって市の担当者も変わったこともあって、住民の方々との話し合いの場が設けられた。地元のまちづくり協議会として集まっていたのは、主に相川の商店街の方々。釣具屋、金物屋、スーパーの若店主、お寺の若住職、郵便局長、本屋、写真屋、陶芸家…といった面々。もちろん行政側から市の担当者、県の小田ちゃんもいた。どんなプロジェクトでも、初めて住民の方々へプランを出す時はいつも緊張する。どういうリアクションがくるのか?こんなのイヤだ!って言われたらどうしよう?といった不安みたいなものがある。いくら自分たちがいい、と思っていてもそれが届かなければ意味が無い。
   
 

 ドキドキしながら説明をした。が、それは徒労に終わった。あまりよくない意味で…。つまり、佐渡鉱山の近代化遺産広場、と言われても地元商店街の方々の人たちにとっては、どこか他人事なのである。それもそのはず、江戸時代は幕府の直轄施設、明治以降、三菱によって開発されてきた鉱山施設は「他人のもの」なのだ。ましてや、世界遺産を目指すと主導しているのは行政で、どうやらこの広場も世界遺産のための広場らしい、となると、地元の人々にとっては「自分たちの」広場という感覚には到底なれないのではないか。それより何より、目の前の商店街を何とかしてくれよ、口には出さないけれど、明らかにそういう感じだった。

   
   世界遺産になって、人が来るようになれば、商店街も活気づく。頭では理解できても、そこまでの道のりを考えると、とても悠長に待ってなんかいられない。それぐらい町は、商店街は、疲弊しているんだ。『我々は2度コンサルさんに騙された。こういう風にします、こうなります、と散々説明していたのに、一向にそのようにはならない。今回はそうならないようにしてもらいたい!』住民の方による発言も、この日の夜の懇親会での出来事だった。
   
   さすがの南雲キャプテンも、ちょっと困っていた。自分たちに何ができるのか。広場のデザインはしっかりやりつつも、もっと直接的に相川の人々のためにできることは何だろうか。どうやったら盛り上がるだろうか。帰りの新幹線では、飲みながらずっとそんな話をしていた。金山のある町相川、相川で金や、相川金や…、そうだ!愛川欽也だ!愛川欽也を呼ぼう!ケロンパも呼ぼう!あ、あと谷亮子もいいよね、「谷でも金!ママでも金!佐渡でも金!」とか言ってもらおう!あと、小木のタライ舟というのがあるよね。あれ結構楽しいよね。佐渡で毎年トライアスロンもやってるよね。タライとトライアスロン…、タライアスロン!金塊を大間港に投げ込んでタライにのって探すタライアスロンっていうのをやったらいいんじゃん!やろう、やろう!今度行く時は相川の人たちにこの構想を話そう!大いに盛り上がった、かつ結構大マジメだった。が、後日、実際に相川の人々に話した時の反応もまた、冷ややかなものであった。笑。
   
   と、書くと、なんだか大丈夫?って思われそうだけど、実際はそんなに冷めた感じでもなかった。というより、住民、行政、そして我々にとっても、今、自分たちにできることは、目の前の広場を、なんとかいいものにすることなのだ、と回を重ねる毎に、徐々に雰囲気は変わっていったように思う。何度目かの話し合いで、大間港にチェーンのフェンス案を見た金物屋さんから『冬の大間港の凄さ知らんでしょ?チェーンが風でグルングルン回って音もなるし、錆びてすぐ切れちゃうよ』と言われた南雲さんが『そんなことある訳ないじゃんっ!』と返すといった熱い?やりとりもあったりした。そんなどこかつかみ所の無い相川の人々だったが、こちらでつくった広場やベンチなどの模型が、ふと、まち角ディスプレイに展示してあったりもした。毎回、終わると懇親会に行き、『盛り上がって行きましょう!』『うーん、でもなぁ…』みたいなやりとりが夜な夜な相川の人々と続いたのだった。笑。
   
 
  相川の人々との話し合いの様子   相川 羽田の商店街
   
   もうひとつの相川について紹介しよう。我々が相川を訪れる時の根城とする宿をどこにするか、という問題があった。市の方や地元の方に聞きながら、いくつか泊まり歩いた末に辿り着いたのが『新ふじ』であった。相川のまちからは歩いて30分ほどかかるが、海沿いに佇み、静かでアットホームな宿だ。根城に決めたのは、宿を経営するご夫婦によるところが大きい。風来坊的な大将は、佐渡の海とニール・ヤングをこよなく愛し、宿の一室に音楽部屋なる部屋まで構えている。一見、自由人のようだが、一本筋が通っており、佐渡の海の恵みを活かした料理の腕前は絶品だ。一方、宿を切り盛りする女将さんは、生まれも育ちも相川で、明るく朗らかで、人当たりが良く、どこか都の香り漂ういわゆる美人女将である。そんなお二人の絶妙なバランスとあまりにも柔軟な対応(笑)にすっかり惚れ込んで、随分お世話になった、いや、もうちょっと性格に言えば、迷惑をかけた。笑。その詳細は次回ぐらいに譲るとして、旅館業という立場柄、相川の色々な情報が集まり、また、お二人自身も、商店街の方々とは少し違った価値観やまちの将来に対する危機感を持っていた。
   
   新ふじの言を借りれば、相川というまちはとかくまとまりづらい、という。確かに、まちが辿ってきた過去を振り返れば、頷けないこともない。でも、まちの未来を語るときに、それでいいのだろうか?どうしたらうまく前へ進むことができるのだろうか?煮え切らない南雲キャプテンと僕は、新ふじの大将の部屋へ押し掛けて夜遅くまで、酒を飲みながら色々な話をした。答えは出なかった。そして、新ふじの翌日は大抵2日酔いのまま、2人に見送られるのだった。
   
 
  新ふじの大将と女将さん。見よ!二人の絶妙の距離感。笑。
   
   そんな相川の人々と話をしながら、広場のプランをまとめていった。結果的に、北沢の工場跡の発掘によって出て来たコンクリート壁をそのまま露出展示しつつ、広場の構成要素のひとつとして取り込むプランを採用した。遺構の扱いについては、大きく3つ方向性があった。1つは保護して完全に埋め戻し、文化財として保存するという案。一般的な文化財保護の考え方である。もうひとつの考えとして、壁も床も全て露出展示する案。こちらも文化財整備として稀に行われる。ただし、保護しながら展示となると、人の立ち入りが難しく、見るだけの文化財になってしまう。そして、3つめの考え方が、これら2つの折衷案であった。我々は、相川の人々にとって日常生活の舞台でありつつ、訪れる人に誇れる本物が介在する風景のある広場を目指した。それは、相川の人々へ向けての我々からの精一杯のエールとメッセージでもあった。
   
 
  北沢の広場の最終プラン。工場配置跡を活かした計画とした。
 
  北沢広場の模型写真。
 
  まち角のショーウィンドウにディスプレイされた模型。
   
   
  (つづく)
   
   
   
   
  ●<さきたに・こういちろう> 有限会社イー・エー・ユー 代表 http://www.eau-a.co.jp/
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