特集 木匠塾
  木匠塾に卒業はあるのか -木と人のモノガタリ- その1

文/写真 戸田都生男

 
●はじめに
   
  スギダラ会員00242番の木匠塾の戸田都生男です。漢字がやや読みにくいですが、「もくしょうじゅく」の「とだつきお」といいます。そもそもこの特集を書かせて頂くきっかけはスギダラケ倶楽部代表であるデザイナーの南雲勝志さんとの出会いでした。3月に東京で開催された国土緑化推進機構主催のグリーンカレッジという間伐材活用についての講座の講師をお互いに務めたことです。
   
  今、こうして書くことで木匠塾を振り返ることができることに感謝しています。本稿では木や森や木造の詳細にはほとんど触れません。これを読まれている皆さんや専門家の方が詳しいかもしれないし、むしろ木匠塾は、森や木、ものづくり以前に大切であろうことを実践していると思うからです。
   
 
   
  ●木匠塾とは
   
  木匠塾とは何か。長年、実践しながら考えているが、その答えの深層は並大抵ではでてこない。しかし、私の想像の域を越して参加者たちがそれぞれの想いを胸に社会で昇華していく時期にさしかかっていることは間違いない。
   
  木匠塾の発端は1991年頃に岐阜県飛騨高山で開催された芝浦工業大学、千葉大学、東洋大学の合同ゼミ合宿である。主に建築系大学の授業カリキュラムにおいて木造建築教育がほとんどなされていなかったことから、木材の産地である林業の現場で学ぶことを目的として、毎夏、開始されることとなった木の建築塾である。その後、飛騨高山から高根村に移り、1995年には岐阜県加子母村(現在中津川市加子母)、1998年からは秋田県角館町(現在仙北市角館)、奈良県吉野郡川上村、1999年京都府美山町(現在京都府南丹市美山)、2000年山形県村山市五十沢、2003年滋賀県多賀町、 京都府京北町(現在京都市右京区京北)、2004年新潟県佐渡市と年を重ねる毎に参加学生も増加し、日本の農山村を主とする地域へと活動拠点が広がった。さらに2008年からは兵庫県神戸市六甲山でも開催し、農山村から都市部への年間を通じた活動の展開を図っている。詳しい活動地と参加校は全国木匠塾マップを参照されたい。
   
  また、岐阜には同じ名称の職業訓練校まで立ち上がった。直接は関係しないが、もともと関係者が立ち上げたものだ。私たちが目指している木匠塾の活動は実務や実社会に直結する部分は多くはないかもしれないが、毎年多くの学生が参加し続ける理由は何なのだろうか。
   
  各地の木匠塾は活動内容と運営方法も多少の差異はあるが、「地域の特性を踏まえた上で地元の樹木を活用して、地域に役立つものをつくる」という点と「大学、地域の行政、住民各者の連携」といった点で共通した活動である。
   
  木匠塾活動内容概要
  木匠塾活動概要;活動イメージ図・運営体制図
   
  ほとんどの学生たちは学内での建築模型制作レベルに対し、木匠塾での1/1、実寸大のスケール感の得られる木の「ものづくり」に魅力を感じ集まってくる。そして木匠塾の活動は学生たちと教員、地元の受け入れ先など様々な関係者なくして存続し得ない。私は2002年から数年間、全国各地の木匠塾を行脚した。今は随分、地域に根付いていることもあり、関西を主に活動を見ている。
   
  各地の運営主体は、教育委員会、役場の地域振興課、林務課、大学研究室、実行委員会、サークル、クラブ、学生のみの幹事会等様々だが、そのどこかに縁の下の力持ちがいる。決まりきった組織の枠を越えて、木匠塾を実行するにあたっての関係は不思議と繋がっている。今後とも、全国の情報交換が密になるよう努めてゆきたい。
   
  また、参加形態も、単位制学外実習、ゼミ、クラブ、サークル、有志など多用である。異なる学校が集まるインターユニバーシティスクールの特色に加え、地域の人々とも協力できるプログラムとして、地元の林業家との林業体験や伐採した間伐材での製作、地域イベントへの参加や地域施設などの見学会などをおこなっている。
   
  平成の市町村合併も落ち着いた昨今、各地域の木匠塾も変革期を迎えている。町村名が変わったとしても木匠塾がこの先も継続できるとすれば、名産や観光だけでない地域の文化的価値が見出されるかもしれない。町村を超えて繋がる文化、社会活動は行政や学校組織の枠組を越えた関係でも保たれてゆくのではないだろうか。その時、この活動の意義がもっと浮き彫りにされるだろうと思っている。そうなるように努力されている方が各地域や参加校に存在する。
   
 
   
  ●川上村木匠塾とは
   
  今回は木匠塾についてもう少し具体的に説明するために、主に川上村木匠塾を事例に述べたい。私が学生時代から参加し、現在も実行委員会の事務局を務める立場からの視点で振り返ってみたい。
   
  木匠塾に関わることになった「きっかけ」は、大阪芸術大学時代の出会いにあった。入学前には阪神大震災で被災し、焼け崩れた家屋や木などの廃材、街なみを目の当たりにして木やまちづくりに興味を持っていた。入学後、芸術大学のためか学内には製作材料の廃材が多く処分されておりゴミコンテナには木材も余っていた。単純にもったいないと思い、それらを使って家具などを製作し、仲間と学内外のフリーマーケットで販売をはじめた。これが意外に売れ、製作自体も面白く熱中することになった。そして当時の私の下宿はスギだけでなく廃材ダラケで「ゴミ御殿」と呼ばれるくらいだった。それほど木などの廃材に愛着があった。そのような中、友人が「戸田君にぴったりの活動がある」と紹介してくれた活動が木匠塾だった。早速、参加を申し込んだ。担当教員は当時から在来木造軸組や民家型工法といわれる木造建築を設計されていた三澤文子先生だった。(後に私は三澤氏の設計事務所に入所することになる)大学3回生で初参加、4回生の時には学生代表幹事を務めた。ちなみに、川上村木匠塾の第1回目から現在まで連続で参加している方は、今の塾長である滋賀県立大学の山根周先生と私くらいである。
   
  当時は木匠塾といえばある種のサバイバル的合宿だった。今のように立派な宿舎もない。山篭りキャンプ状態で水道もなく川に水を汲みに行った。あれだけ日中に水汲みに苦労したにもかかわらず、急な大雨に見舞われ一次避難することさえあった。山道が滝になっている光景は今も忘れることはない。水源地といわれる場所だからこそ豊富な緑木が育っていることを目の当たりにした。活動現場であった川上村高原地区の標高はおよそ900mだった。通常、山では標高100m上がるごとに気温はおよそ0.6℃下がるという。だとすれば村役場付近での真夏の日中の気温が34.0℃なら、現地では約28.6℃位であったことになる。実際は、朝晩は冷え込み気温差が激しいのだが、日中は平地よりもっと暑く感じた。それぞれの活動量がますます体感温度をあげてゆき、そのようなことでさえ分からなくさせていた。私はあの時の体験から情報化社会とはいえ、天気予報もあてにしない、昔ながらの「観天望気」の感覚が必要なことを学んだ。山から下界という日常に戻った時、蛇口を捻ると水が出ることにありがたさを感じたことや、出始めだった頃の携帯電話にも頼らない密な連絡と確認の大切さに気付いたのだ。木はあくまで副産物的な存在だったが、逆に言えばそれらはすべて木から教わった体験とも言える。
   
 
 
  山奥の生活
   
   
   
   
  木匠塾に卒業はあるのか -木と人のモノガタリ- その2 へつづく
   
   
   
   
  ●<とだ・つきお> 木匠塾・実行委員会代表
(財)啓明社・特別研究員、
京都府立大学大学院生命環境科学研究科博士後期課程在籍(建築環境心理・行動学専攻)
同校非常勤アドバイザー及びティーチングアシスタント、環境省登録・環境カウンセラー、
戸田環境企画研究所としても活動中
   
 
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