連載
  スギと文学/その26 『雲の信号』 春と修羅 宮澤賢治より 1922〜23年
文/写真 石田紀佳
  (4コマまんがのおまけもあります)
 

「春と修羅」にはいくつかの杉がでてくるから、これから何度かにわたって、読み書くことにする。
いいわけになるけれど、できれば他の小説に杉がでてくれば、これはとりあげたくなかった。
くだらぬ感想をのべるのは、冒涜することと同じ行いだし、思い違いはもちろんのこと、わからないところがたくさんある。でもそれはどの文学作品(文学でなくても)についてもいえることだから、試しというか勇気というか、ひらきなおりではないのだけれど、書いてみることにする。
ほかに小説を探す気にならないのは、もしかしたらよい機会なのかもしれないし。そうでもなければ一生やらないかもしれないし。
ただし、これはほんとうに、私のいっときの浅はかな感想なのだ。書かないほうがいいのかもしれない。
と、くどくどと、読んでくださる方の時間をつぶしてもいるので、このへんでやめときます。すみませんでした。

   
  おりにふれてよめば そのおりの おのがこころにふれ、またときをへてよめば あらたにふれる。ことばにこめられたくめどもつきぬ「心象スケッチ」。
   
  短い詩だから、全文を引用。
   
 
   
  「雲の信号」
   
  あヽ いヽな せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光ってゐるし 
山はぼんやり
岩頚だって岩鐘だって
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
   そのとき雲の信号は
   もう青白い春の
   禁慾のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きっと四本杉には
今夜は雁もおりてくる
   
  (校本 宮澤賢治全集第2巻より)
   
 
   
  四本杉に雁がおりてきたら、それはもうすぐ北の地に帰るということなのか、
あるいは
まだ帰らないということなのか。
それによって、この詩の意味は多いにかわってくる。
   
  雁、北へ帰る、という言葉は暦の七十二侯の中にあり、春めく時期である。
四本杉におりたった雁は北を目ざして日ののぼらぬうちに旅に出るのか。
春を見捨てて、北へ立つ雁は、古来、いさぎよい凛とした鳥とみなされてきたようだ。花のないところでばかり生きる人の象徴でもある。
   
  春と修羅、というタイトルの心象スケッチにあるこの「雲の信号」は賢治の自らの運命に対する決意のように読める。以前は、わりとのんびりした印象をもっていたのだけど。
   
   
   
   
  ●<いしだ・のりか> フリーランスキュレ−タ−
1965年京都生まれ、金沢にて小学2年時まで杉の校舎で杉の机と椅子に触れる。
「人と自然とものづくり」をキーワードに「手仕事」を執筆や展覧会企画などで紹介。
近著:「藍から青へ 自然の産物と手工芸」建築資料出版社
草虫暦:http://xusamusi.blog121.fc2.com/
『杉暦』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_nori.htm
『小さな杉暦』web単行本:http://www.m-sugi.com/books/books_nori2.htm
ソトコト(エスケープルートという2色刷りページ内)「plants and hands 草木と手仕事」連載中
   
 
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