連載
  杉と文学 第15回 『微光のなかの宇宙』 司馬遼太郎
文/ 石田紀佳
  (しばらくまんがは休止します。)
 

ずいぶん大人になってから、というかちょっとまえ、たぶん4、5年ほど前に「ゴッホの手紙」をはじめて読んだ。
じつはゴッホの絵は強すぎて、はっきりしすぎて、避けていた。今思えばおかしな話だけど、「糸杉」という絵はタイル張りのようだし、子どもが描いたみたいで、いやだな、と(子どもだった)中学のころ思った。印刷物の印象だが。そしてときどきなにかでみかけるゴッホの生涯のエピソードにも嫌悪感があった。あまのじゃくの私には、有名すぎる画家というのも興味がわかない大きな理由だった。

それが暇つぶしに手にとった「微光のなかの宇宙」という本のゴッホのページで気持ちがゆらいで、とうとうみすず書房の「ゴッホの手紙」に手を出した。重たすぎて(本の重量のことではない)体調を崩しながら読んだ。嫌悪感は増し、なんともどん底の救われない気持ちになったが、しばらくすると不思議な勇気もわいたのをおぼえている。

あまのじゃくにとっては司馬遼太郎の美術観というのにもかなり抵抗があったから、この本によってわたしは自分の殻をふたつ割ったことになった。いったいどういうところに殻が割れるきっかけがころがっているかわからないものだ。
やさしい言葉で美術が述べてあるところ(むずかしい言葉で評論するのが常識になっている現代美術が入っていないせいもあるかもしれないが)にうたれて、しばらく離れていた絵画の世界に目をむけた。

中公文庫版の冒頭には書き下ろしの「裸眼で」という前書きのような一文があり、若いころに新聞社で絵画批評の仕事をしていたことが書いてある。その美術記者時代のことを、
「絵を見るというより、正確には、本を買いこんできて絵画理論を頭につめこむことを自分に強いた〜中略〜セザンヌの造形理論を読み、実際の絵画の中でたしかめ、そのたしかめたことを、制作した人に問いただしたりした。この四年ほどのあいだ、一度も絵を見て楽しんだこともなければ、感動したこともない」
彼は仕事を離れてから見たゴッホの「宝くじを買う人々」に感動する。「砂利でも詰めるようにつめこんだ近代絵画理論」によって「この絵を見てその造形性に感動しているのではなく、絵から自分が勝手にひきだしている文学性に感動しているのだ」としていましめていたのに、「宝くじを買う人々」のひとりひとりの暮らしを想像し、「ゴッホが感じつづけてきた人間という存在への強烈な・・・自分が他者だという・・・思い入れが小さなケント紙の中に、痛みとともに息づいている」と感じる。
そして近代絵画が排除すべき文学性とは何か、と問い、それに対して「はげしいことばでののりしたく」なった。彼はそれ以降小説家になるらしいが、まだ彼の小説はひとつも読んだことのない私には彼のいう文学性というのがよくわからないのでこの話はここまでにしておく。

この本の中の「ゴッホの天才性」の項を早起きして再読したら、朝からどっと疲れて、二度寝した。起き上がると春陰の空。重さを引きずりつつ、一日がはじまる。

   
 
   
  (いいわけ)
糸杉を描いたゴッホのことを書いた小説家の司馬遼太郎の本ということで、今月の杉と文学にしました。こじつけですみません。。。ちなみに糸杉はヒノキ科イトスギ属の総称で、サイプレス(Cypress)、もしくはセイヨウヒノキ(西洋檜)ともいわれるそうです。サイプレスは入浴剤やアロマオイルでもよく使われてますね。
   
   
   
   
  ●<いしだ・のりか> フリーランスキュレ−タ−
1965年京都生まれ、金沢にて小学2年時まで杉の校舎で杉の机と椅子に触れる。
「人と自然とものづくり」をキーワードに「手仕事」を執筆や展覧会企画などで紹介。
近著:「藍から青へ 自然の産物と手工芸」建築資料出版社
草虫暦:http://xusamusi.blog121.fc2.com/
ソトコト10月号より「plants and hands 草木と手仕事」連載開始(エスケープルートという2色刷りページ内)
   
 
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