高千穂秋元で見た夜神楽
文/写真  南雲勝志
  いま地域が生き残るために・・・
 
  

2008年もあとわずか、今年のスギダラ活動は過去最高であったと思う。今までの経験を生かし、確実にスギダラの存在意義を表に伝えることが出来た一年であったのではないだろうか。

さて、今回は11月29〜30日に念願の高千穂向山、秋元の夜神楽に訪れた。それまでの秋元との関わりを思い起こしながら、感想を述べたいと思う。秋元については高千穂仙人、飯干淳志さんが月刊杉7号で「神棲む森と杉の木 −神話のくに高千穂から −」を、翌月8号でそれを受けた形で吉武哲信さんが「神棲む森の人々とともに 」を語ってくれています。まずこちらを読んでいただけると、秋元夜神楽の事、吉武先生と秋元の関係が理解出来ると思います。

 

   集落の一番高い場所からみた秋元の山々。中央橋の左手の建物が秋元集落センター。
 

初めて秋元を訪れたのは2001年の事だった。この時のことはなぜかあまりよく覚えていない。季節がいつだったかさえはっきりない、が多分夏だった。日向の仕事に関わり始めて2年目、塩見橋が完成して間もない頃だった。まだ日向以外はあまり知らないころ、高千穂に行ってみませんかと吉武先生や中村安男さんに誘われ、仕事の足で日向から向かった。辻さん、幡生さんも一緒だった。当時は道が悪く、高千穂の市街地から秋元に向かう道は砂利道がかなりあったように記憶している。左に深い渓谷を見ながら曲がりくねった道をどんどん奥に入っていく。この先に本当に集落があるのだろうか?と思いながら、雲を抱いた山並みはまさに神が降りてきそうな風景だった。それを見て神話が生まれた理由を納得したことを覚えている。
目的地の集落センターに到着した時はもう薄暗かった。初めての訪問であったし、秋元の皆さんと顔合わせを兼ね、ざっくばらんに語り合おうという会であった。二階の広間で、山菜料理と焼酎をいただきながら秋元の現状や農業のことなどいろいろな話をした。
話の中心は夜神楽の事あった。この地に長い間守られてきた夜神楽の伝統を継続していく事の大切さと大変さ、そして未来のために自分たちが一生懸命それを守っていこうとしている決意を聞いた。一方で秋元も世の中の波に逆らえず、東京や都会に出て行く者もいることを聞いた。夜神楽が何たるか良く知らないまま聞いていたが、その練習量は半端ではないこと、夜神楽には最低限の人数が絶対必要な事、若者の中には推進派と、そうでないものもいること。そういったなかで、自分たちの地を守るため、やっぱり残った者で頑張っていくしかない、という事だった。
その話の中で僕が気になったのは、一度秋元を出た人間がもう一度都Uターンをして、やっぱり夜神楽をやりたいと言われても簡単に一緒に出来ない、という話であった。多分に新潟の山村から上京した自分と置き換えているところもあったのだが、人にはいろんな考え、いろんな状況もある。その状況が変わり、気持ちが変わった時点で再び地域に受け入れるキャパがあっても良いんじゃないかと思い、相当議論をした。ふるさと論的な話であった。仲間をきちんと迎え入れられなくて、伝統を守るということはあまり意味がないんじゃないか? などと生意気なことも言った。
気がつくとあたりが白々して来た。頭を冷やしに一階に下りて行くと台所に中村さんがいた。今までの話を説明すると、半分笑いながら「それは良かったですね。」とだけ言っていったような気がする。そんなぼんやりした記憶しかない。その場に何人いて、誰がいたかよく覚えていないのである。(後で話の中心は隆幸さんだったと知らされる。) 集落をゆっくり散策もせず、酒を飲みながら語り明かしただけで、何か夢の世界であったような感じであった。
ただ記憶に残る強烈な印象を秋元に持ったのは明らかで、それ以後頭から離れない特別な意識を秋元に持ち続けることになる。

  
  貴重な2001年の写真。集落センターの二階。自分では持っていなかったが、この原稿をみて吉武先生が送ってくれました。 懐かしい!そして、みんな若い! 記憶がだんだん蘇って来ました。2004年の写真も吉武先生提供です。
 

二度目に訪れたのは三年後、2004年夏である。ちなみにスギダラを結成し、HPを開始したのはこの年の6月なので、その直後であった。その時も吉武先生の宮崎大学のワークショップに連れられていった。この頃は延岡の本小路通線の仕事に関わっていて、延岡までは良く来ていたので、何となく高千穂も身近に感じられた。井上さん、辻さん、南さんらが一緒だった。井上さんの50杉というハンドルネームはこの時生まれた。
この時の事は比較的良く覚えている。秋元を観察し、自分たちなりに何が出来るか提案しようというワークショップの仲間に入れてもらった。地元と学生達、よそ者を一緒にしたグループを5班程度つくり、秋元のために何が出来るか、それぞれテーマを決め発表するというものだ。先ず昼ご飯の食材を集落の方からいただいて来て、それで昼食をつくるところからスタートした。そこで見聞きした情報をもとに、自分たちのテーマづくりをするための午後の行動に移る。この時に一緒のグループに吉武春美さんがいた。初めての出会いだった。
我々の班は集落の最も上にあたる所にわさびがあることを教えてもらい、持ち主の百合子ばあさん宅にお願いに行った。ご主人はお亡くなりになり、一人息子は東京に行き、一人暮らしであった。「毎日の生活で楽しみは?」と聞くと「な〜んにもない、ただテレビを見ることくらいしかしか楽しみはない。わさび畑や岩魚の養殖も手がないから今はやっていない。ま残っているものは採っていって良いよ。」と言われた。
センターに帰り、おろしたてのわさびを入れたそばつゆに舌鼓をうちながらも、百合子ばあさんがどうしたら日々楽しい生活を送れるか? 一度考えてみよう。我々の班はそれをテーマにした。結局は家族、地域、よそ者それぞれがその枠を超え、可能な人の繋がりを持つことではないかという結論に達した。なんと発表は各グループが結論を寸劇で発表するのである。初めての事に面食らったが、百合子ばあさん役は春美さんが担当、その演技のうまさには驚いた。百合子ばあさんを昔から知っている地元の男性に「まるで若い時の百合子さんが甦ったようだ。顔も話し方も似ている。」とまで言わせた。春美さんはその演技で主演女優賞を獲得した。ちなみに僕の役は秋元を訪れた「よそ者の男1」であった。
ワークショップ終了後、公民館で地元の皆さんと懇親会を行った。美味しい食材と焼酎をいただきながら、あの伝説のアヒルのダンスを始めて見た瞬間だった。村じゅうを上げて男も女も老いも若きも一緒になってアヒルのダンスを踊る。無条件に全員が踊るのだ。そして驚いた事に皆さんやたらと上手い。恥ずかしいとか何とか言っていう間もなく、一緒に初めてのアヒルのダンスを踊ったのだった。その後は淳志さんのお宅に泊めていただく。泊めていただきながら、夜まで騒いでご迷惑をかけたことを今でも覚えている。淳志さん、真弓さん、その節は本当にごめんなさい。宮崎大学の女子学生に「壊れた大人」と評されたのもこの時である・・・
この年の10月から富高小学校課外授業「移動式夢空間」 開始、翌年の3月まで行った。その後、吉野ツアーへ、吉武先生、出口先生、和田さんらも参加。その勢いは月刊杉発刊へと繋がっていく。

    
 

到着するとまず自己紹介ではなく、淳志さんの娘さん、まりえさんと他己紹介をしあった。

  
  百合子ばあさんチーム。みんな真剣。淳志さんも、春美さん、新城君もいる!
  
  初めてのアヒルのダンス。前列地元プロチームに対し、後列よそ者チームはまだまだ恥ずかしそう〜でした。
   

三度目は2005年5月にスギダラツアーで訪れた。吉野ツアーを3月に行った直後である。
ちょうど上崎橋のプロジェクトに関わっている時で、スギダラでも2005年から2006年にかけ、伐採、玉切り、運搬、手摺り取付など、力を入れて参加をしていた。「月刊杉」が創刊されたのもこの年の7月であった。
この時は別の意味で記憶に残っている。前年に秋元を訪れた後、宮崎県は台風14号による大きな被害を受けた。高千穂鉄道は壊滅的な被害を受け、その後の努力も実らず結局は廃線となった。引きちぎられた線路や橋の写真に自然災害の恐ろしさをまざまざと感じさせられた。
五ヶ瀬川流域全体が大きな被害を受け、上崎橋周辺の北方町付近は二階レベルまで水没したという。秋元も橋が決壊したり、道路が寸断された。そんな状況の中、翌年4月に行われたデザイナーグループ「happi 01」の展示会のオープニングパーティーに淳志さんが来てくれた。感動的だった。
翌月、2泊3日の高千穂ワークショップに参加したのだった。その時も台風接近で出発が大幅に遅れ、熊本空港行きが宮崎空港に変更になり、おまけに行き止まりの道を避けて迂回して秋元に行き、秋元に到着したのは夜の1時をまわっていた。
その時は「秋元ものづくりワークショップ」なるもので、簡単に言うと地域とよそ者が一緒になり、秋元の役に立つものを皆でつくろうというものだ。車庫をつくる班、露天風呂をつくる班、そして我々の班は茅葺きをする班であった。ミヤダラが中心になり、井上さんや日向市の和田さん、小野寺さんも一緒で、なかなか充実したツアーであった。なんと杉の木クラフトの池田さんにもこの時初めてお会いした。ジムニーに乗って一人でやって来た。かなり長い付き合いのように思えるが、まだ3年ちょっとの付き合いなのだ。その後佐藤薫さんも上崎に参加、そして北部九州支部結成と繋がる。
この時の模様はスギダラ家の人々に詳しく紹介されているので参照されたい。大勢で参加し、淳志さん、金光さんのお宅に泊めていただいたり、公民館では地元の皆さんがまたまた美味しいごちそうを振る舞って下さったりとすっかりお世話になった。ここでスギダラとアヒルのダンスは切っても切れない確固たる関係になったのだった。10月には秋田ツアーを実施、さっそく覚えたてのアヒルのダンスを秋田で披露したのだった。

   
   屋根葺きの模様。とても難しかった。
  こちらは露天風呂製作現場。
   
   こちらは車庫チーム。
  集落センターの親睦会。このあとアヒルのダンス。
           

そして今回初めての夜神楽を見たわけである。初めて秋元を訪れてから7年半ほど経ったことになる。しばらく行かない時期もあったが、いろいろな意味で秋元とは繋がっていた。いつかは見たいと思いつつ、毎年年末の慌ただしい時期で、今までチャンスがなかった。だから今回は無謀とも言えるスケジュールではあったが何とか決行することにした。
到着した時はすでに日が暮れ、秋元は闇に包まれていた。今年の神楽宿飯干淳志さん宅に着くと焚き火の煙の臭いと、太鼓の音で夜神楽が始まっていることはすぐにわかった。ドキドキして緊張が高まる。神楽の会場に行く前に一旦休憩をし、食事をしていない我々のためにまず腹ごしらえをして下さった。いつもながらの計らいに本当に感謝する。

 

  今年の神楽宿飯干淳志さん宅。朝6時頃撮影。大屋根の下が神楽会場、右に見える昇りが外注連。

  神楽宿の庭には赤白緑の三色の飾りがあり明かりが添えられ、そこから竹が空高くそびえている。後で淳志さんが教えてくれた事であるが、外注連(そとじめ)と呼ばれるもので、山の神はそこから地上に降りて神楽宿に入ってくる。だから庭に面した戸は、寒くても夜通しずっと開け放たれたままだ。
神楽を舞う家の中には二間四方に榊が立てられ、神庭(こうにわ)という結界をつくっている。ここは舞手のみが入る事の出来る神聖な場所だ。 神庭は榊、縄、和紙の飾りで囲まれていて、素朴ではあるが神事が行われるに相応しい空間を作っている。
そこで午後6時から翌日の昼近くまで33番夜通しで続けられるのだ。
舞手、演奏者は交代でそれぞれの一番一番を演じていく。神と人間とが一緒になっているような不思議な空気がそこに存在している。
 
外注連(そとじめ)この場所に神が降りてくる。
 

印象的だったのはまず舞手のうまさだ。指の先から足の先まで神経を張り巡らしている。動き、制止、それぞれの間の取り方は見ていても緊張する。そして笛と太鼓の一見単調ではあるが、微妙な音程と素朴なリズムである。舞の間をしっかり見ながら音楽を絶妙に合わせていく。そして神楽面が持つ力はすごい。古くは平安、鎌倉から伝わるというそれは、面自体が何かを発している。そしてその面は舞手の力を借り神となり、言葉を発するのだ。
一番、一番終わるごとに舞手は面を丁寧にお返しする。面を外した時の舞手は息が上がり、顔は寒さにも関わらず汗びっしょりだ。相当の体力と神経を使うことが伺える。面を受け取る側は榊を唇に噛み、気を止める。代々と伝わる神楽面の不思議な力をみた。
長時間に及ぶ神楽は食事も必要である。神楽を行う人、そして来てくれた人全員に食事を振る舞うのであるが、それも半端な数ではない。こちらは女性陣で構成する賄いチームが担当する。 つまり秋元がひとつになり、共同で行わないととても出来ない作業なのだ。神楽が成立するためには最低20名の男衆が必要だという。それを下回ると神楽は維持をしていけなくなる。
秋元の夜神楽は明らかに他人に見せるためのショーではない。それは秋元のため、自分たちのために舞う。一年の締めくくりとして山の神に感謝し、五穀豊穣を願う儀式である。練習は一ヶ月に及び、動きや間の取り方はビデオを見て何度もチェックするという。
歴史や伝統を守る覚悟は半端ではない。その成果として行われる夜神楽を目の当たりに見て、2001年に初めて訪れたときの彼らの真剣な思いと言っていることの本質がようやく少し理解出来てきた。

   
   雅楽は横笛と太鼓のみ。舞を見ながら合わせていく。
  舞い終わった後、深々と神楽面に礼をする。
 

  神楽十二番、<七貴神>しちきじん。最も多い七人で舞う。
   
   順番を待つ七貴神。
  祭壇の上に置かれた神楽面。
   
   神庭は縄と切り紙のような「彫り物」で囲まれる
  食事は全員でいただく。
 

  神楽二十三番、柴引
 

   近所の女性陣が食事の支度をしてくれる。淳志さんのもと馬小屋の一階。二階は宿泊出来るように改装された。

 

夜神楽の全体の流れに関しては、まだまだ全然書けません。ミヤダラのブログに吉武春美さんが、三十三番をとてもわかりやすく書かかれているので、そちらを参照して下さい。
昨年は→ 高千穂・秋元夜神楽2007 今年は→高千穂・秋元夜神楽2008

地域が生き残るための必要な術、覚悟、勇気、仲間との繋がりの重要性、秋元は訪れる度にその事を教えてくれる。力を合わせ気持ちをひとつにしなければ地域は継続していけない。それをわかった上での爽やかで明るく、しかし責任ある連係プレーは本当に素晴らしい。我々のようなものがいつ訪れても暖かいもてなしをしていただく。そのことにいつも敬服する。 そしてその思想にスギダラは相当影響を受けてきたことは言うまでもない。

思い起こせば、1999年に初めて日向を訪れてから10年が経つ。そこからいろんな人と出会い、いろんな事が繋がっていった。 秋元との関わりは要所要所で僕らの基本というものを教えてもらった。さあ、来年からの10年、大きなくくりとして何を基本にしていこうか・・・

山の上の神々の村秋元は本当に神と共に生きていると思わせる。そして他者との比較ではなく、自分たちの出来ること、やらなければいけないことをきちんと守っている。その姿は間違いなく静かに時代の最先端を走っている。


 

 

  ● <なぐも・かつし>  デザイナー
ナグモデザイン事務所 代表。新潟県六日町生まれ。
家具や景観プロダクトを中心に活動。最近はひとやまちづくりを通したデザインに奮闘。
著書『デザイン図鑑+ナグモノガタリ』(ラトルズ)など。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部
   
 
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