連載
  東京の杉を考える/第26話 「山の時間」 
文/写真 萩原 修
  あの9坪ハウスの住人がスギダラ東京支部長に。東京から発する杉ものがたり。
 

スギダラに関わるようになって、山で過ごす時間が増えた。まだまだ、山が自分の日常になったわけでもないし、山の暮らしを実感をもって体験しているわけでもない。それでも、山とつながる糸口が少しずつ見始めている。

山は、意外に近くにある。ぼくの家からでも1時間もすれば山の中である。それなのに、普段の生活の中で、山を感じることは少ない。意識して、山に行くようになって、あらためて山の力を感じはじめている。

「武蔵五日市の山」「青梅の山」「高尾の山」「鳥取の山」「長野の山」「徳島の山」「岐阜の山」「富山の山」「新潟の山」と、ここ2年ぐらいで行った山を思い出してみる。そのほとんどが、車で山にはいる。ほんとは、自分の足でのぼるのがいいのかもしれないけど、まだ、その余裕と機会がないままでいる。

車でいける範囲なので、そこは、人間の手がある程度はいった管理された場所である。車を降りて、あたりを散策して、自然の力をまのあたりにする。しばらくそこに佇み、じっとしている。自然の力を感じる能力が低いぼくでも、都会とはあきらかに違う空気と時間をうけとることができる。

都会に生活するようになった人間は、何をなくしてしまったのか。自然の驚異や恵みとの関係がうすくなった人間は、本当に幸せなのだろうか。現在でも、自然との関係をきちんと保ちながら、日々の営みをしている人もいる。そういう人たちと、都会の人は、何が違うのだろうか。

糸のきれた凧のように、自然との関係を結べずに漂う都会の人。そのイメージが正しいかどうかわからないけど、あきらかに自然との関係が希薄なまま生きてきた自分にとっては、スギダラと関わることでなんとなく気づいてしまった今、生きる上で何かが足りない気分が強くなっている。

そうは言っても、今すぐに、仕事を辞めて、自然に近い暮らしができるかというと、なんとも勇気はわいてこない。臆病で保守的な人間なのか、現状から踏み出す気力は、極端に少ない。これからも軟弱な都会の人間として、生きていくしかないのだろう。

山にいると、デザインの必要性も怪しくなる。住宅や店舗や、家具や日用品や、その他もろもろのデザインしたものは、本当に必要なものなのだろうか。町のくらしに必要なものと、山のくらしに必要なものの違いは何なんだろうか。ああ、なんだか悩ましい。スギダラに関わるデザイナーは、山と関わることで、これまでとは違うデザインを身につけることができるのだろうか。

これからも自分の山の時間は増えていくことだろう。山の時間をかみしめながら、少しずつでも、自分の中の自然力を高めることができたらいいと思う。

   
   
   
  ●<はぎわら・しゅう> 9坪ハウス/スミレアオイハウス住人。
   
 
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