連載

 
新・つれづれ杉話 第21回 「愛すればこそ」
文/写真 長町美和子
杉について、モノづくりについて、デザインについて、日常の中で感じたモロモロを語るエッセイ。 
 
  今月の一枚

※話の内容に関係なく適当な写真をアップするという身勝手なコーナーです。

暖かくなって、うちの猫もそろそろ衣替え。ベランダでブラシをかけると、これでもか、とばかりに毛が取れます。こうしてテニスボールほどの毛玉ができると、洗剤を溶かしたお湯の中で揉みながら平たく成形し、フェルトをつくることができるのです(笑)。ミルクティ色の鱈三フェルトと、チャコールグレーのざくろフェルト。たくさんたまったら何かできるかもしれません。

 
二匹の毛
 
 
 
 
    愛すればこそ
 

先々号で、住んでいる古いマンションの中庭の話に触れた。(→参照:月刊杉31号 新・つれづれ杉話 第19回 「思い込み」) あれ以来、古木となった桜をどうするか、茂りすぎた木々全体をどうするか、理事会ではまだまだ議論が続いている。区の保護樹林にも指定されている中庭の緑はこの界隈の「森」と言ってもいいくらいの存在感を放ち、春夏秋冬の景色をつくってくれている。とは言っても、35年前に分譲された時にはもっと見通しも良かったはずで、ベランダ側が庭に面した棟に住む人にとっては、この緑は有り難くも鬱陶しい、複雑なものとなっている。

3階以上に住む人や、中庭を北側に眺める棟の人にとっては、淡い雲のような桜も、目に沁みるような紅葉も、見上げるようなヒマラヤ杉の木陰も、すべて四季の恵みとしてしか写らない。だから「積極的に剪定すべき」派と、「このままでいいじゃないか」派との折り合いはなかなかつかないのである。

問題を複雑にしているのは、そこに「桜の名所」としての役割とか価値を持ち出す人がいることだ。大正時代からあった教会の神学校跡地を生かすかたちで計画されたマンションなので、たぶんこの桜はもう寿命とされる60〜80年は軽く越えているに違いない。この数年でも樹勢に衰えが見えているのに、このままでは近い将来桜がなくなってしまう可能性がある。また、老木となって台風のたびに折れる枝も増え、その枝といってもふつうの木の幹ほどもある太さなので、通行人に怪我をさせやしないか、と管理人さんはヒヤヒヤなのだ。

危険な枝を切るくらいはいいじゃないか、と思うのだが、木々を愛する人の中には「朽ちていくのも自然のままに任せるべき」という意見を持つ人もいて、その愛の強さには宗教に近いものさえ感じる。ここに見えてくるのが『環境保護 → 自然のままに → 放置』という図式。それは日本の山林が荒れていく一つの原因でもあるのではないか。山や森林資源をどこか自分から遠いところにある「豊かな緑」として観念的にとらえる現代人、また、自然と共存する必要性をふだん感じることのない都会人は多い。「何がなんでも切ってはいけない」「人の手を入れたら自然は壊れてしまう」そんな勘違いに近い正義感のようなものが、環境保護という名のもとで森林の放置にジワジワと影響力を及ぼしているような気がするのだ。

中庭では、老木の間に新しい桜の苗木が植えられているところもあるのだが(植えることについては、どこからも反対は出ないらしい)、古い桜に圧倒されて若木がうまく育たない。植栽管理を委託されている業者からすれば、古い桜の枝を落として若木のためのスペースをつくりたいところなのだが、そうした管理的な伐採も許されない。桜という木は土地の養分をかなり必要とする樹木であるらしく、立ち枯れた木の後に若木を植えても育たないそうだ。だから、桜存続派の人たちは、全部が寿命を迎えてしまわないうちに、少しずつ新旧交代の準備をするべきではないかと主張する。

「ダメになるのを待ってたら、一時期まったく桜の咲かない期間ができてしまう」 
そう言うと、自然愛護派の人は
「いいじゃないですか。朽ちたら朽ちたで、何十年か先にまた自然に桜が育つまで待てばいい」と答える。
「公道に張り出している枝が折れて、住民以外の通行人が怪我をしたら責任を問われる」と言えば、
「台風で枝が折れるのは自然災害ですから、しょうがないでしょう」と言う。

同じように桜を愛し、同じように庭を愛している人たちの間でこうも意見が食い違う。何年か前には、公道に面する大イチョウの木が、内部で腐って洞(ウロ)になっているらしい、と判定され(誰がしたかは定かではないが)、「切らないで!」という数十名の署名嘆願書が提出されたにも関わらず、安全のために根元から伐採されたことがあるそうだ。ところが、切ってみると、果たしてその切り口は瑞々しくまったく腐っていなかった。この時、切る、切らないで二分された住民達は非常に後味の悪い思いをしたという。

そんなこんなで、木々を愛する人々は、愛するがゆえに木に触ることができない。たかがマンションの中庭で、これだけ真剣な議論が行われるのを見ていると、やっぱり日本人にとって樹木、それも抱えるほどに育った大木は特別な存在なんだなぁ、と思うのだ。
単なる植物を越えたもの。精神的な拠りどころ。
この話、うまい具合に落ち着いてくれたらいいのだが。

   
   
   
   
   
 
 
  <ながまち・みわこ>ライター
1965年横浜生まれ。ムサ美の造形学部でインテリアデザインを専攻。
雑誌編集者を経て97年にライターとして独立。
建築、デザイン、 暮らしの垣根を越えて執筆活動を展開中。
特に日本の風土や暮らしが育んだモノやかたちに興味あり

   
   
 
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