連載

 

スギダラな一生/第11笑 「ビッグママ、宮崎さんのこと」

文/ 若杉浩一
ものづくりチームを支え続けたビッグママ 宮崎さんへ 感謝の気持ちを込めて
 

またまた原稿が遅れました。すみません。最近なんだか行事が多く、しかも毎回、毎回よせば良いのに盛り上がる。夜は夜で飲みも飲み、ずるずると原稿を遅らせてしまいました。 こういうのは、きっかけを逃すとまたまた緩くなってしまうのです。どうぞ皆さん、懲らしめて下さい。

さて今回は、僕たちのビッグママ「宮崎ヒサ子さん」宮崎さんのお話をしたい。
宮崎さんは入社以来、内田洋行の技術、デザインやモノづくり集団の面倒を見続け、定年退職後も先輩が経営していた技術会社の(内田洋行内に会社がある)またまた面倒をみて今年退職された。まさしくビッグママなのである。
僕も入社以来24年彼女にお世話になりっぱなしだった。
実は、内田洋行のデザインいや、僕たちのチームの特色というか、生き方、立ち望み方は彼女によって形成されたといっても過言ではない。幽体離脱する中尾君も、僕たちにとって、なくてはならない奥ちゃんも、そして千代田も、僕たちの内務の内田さん、そしてキャッシーもみんな、みんな、彼女から多くの影響を受けている。いわば、モノづくりチームの生みの親みたいな存在である。
僕たちは、いつもチーム戦、団体戦をやる。そして、南雲さんや小野寺さん達の団体戦もそうだ。誰一人として脇役がいない、このダイナミズム、喜びを教わったのは、彼女、宮崎さんだと思う。

僕が大学を卒業し、最初に勤めたのは、内田洋行鎌倉研究所だった。田舎もんの僕にとって、都会は嫌だった。出来れば、九州に残りたかった。しかしなかなか田舎でプロダクトデザインなんてない。ところが内田洋行は鎌倉にオフィスがあったので、それに引かれて入った。そして、そこにはまるで、天草の(僕の古里です)太陽みたいな宮崎さんがいた。電気設計、機械設計、そしてデザインの3つのチームの内務だった。とにかく、この研究所というか施設は、まるで学生寮みたいな感じだった。やっている事は全うなのだろうが、やっている人はハチャメチャだった。僕がいうのもなんだが、社会人として如何なもんか?いや明らかに問題ありな人ばかりなのである。昼過ぎでやってきて、朝まで一心不乱に機械にまみれてプログラムを組んでいる。時々彼に捕まると気絶するぐらい話が長い。おまけに何を話しているのか、まったく、解らない。多分凄いのだろうが、僕にとっては、意味不明なのである。話を何回も終わらせようとするのだが、また始まってしまう。痩せこけた顔に無精髭をまとい目だけがランランとしている。夜にばったりあったら恐らくビックリするような強いインパクトを持っている。そうかと思えば、飲んだくれて、パンツを脱ぎっぱなしで何処やらにいってしまうエレクトロニクスのプロの先輩や、飲んだらヤーさんにでも喧嘩を売り、ボコボコにされる困った先輩。大声で上司を蹴散らしている、優しき熱血凄腕先輩。ぼくはえらいところへ来たものだと思った。普通は滅多にお目にかからない光景とよく遭遇するのである。

モノづくり以外は社会人としてどうなんだろうか?と言える方々ばっかりなのである。しかしそのものづくりに対するエネルギー、そして立ち向かい方は純粋そのものだった。深夜にわたり、議論を交わしていた人たちだった。その中でその子供たちを普段の生活からプライベートに近いところまで、面倒を見ていたのが宮崎さんだった。とにかくモノづくりのために、メンバーが全てのエネルギーを捧げられるように先回りをしてくれるのである。しかしモノづくりを真剣にやらない人や出来事には厳しい、一喝される。宮崎さんはとにかく、楽しい事が大好きだ。そして、皆と楽しむ事はもっと好きだ。僕だって多少のプライベートはあるのだが、当時独身の僕を色々な仲間とのイベントやツアーに誘ってくれた、と言うより連れて行かれた。あまりに当然のように誘われるのでもう断るなんて余地はない。仕事もプライベートもない。全て宮崎さんにお見通しになっていく。丸裸である。それがまた心地良くなると言うか、ダメになると言うか、ヤケクソ気味になると言うか、逆らうより、染まる方が楽で、楽しくなるのだ。

入社当時の僕は宮崎さんの醸し出す空気の中で純粋培養されたと言っても良い。
いや、何の技術も持たない、しかも、こころざしもない、ただの田舎者の僕にですらモノづくりに純粋である事の大切さがひしひしと伝わってきた。まるでお母さんに、悪さを見つかった子供のような感じなのである。ぼくはこの環境で6年の修行を受けた。しかし本社開発部とソリが合わなかったのか、デザインを首になった。そして全くデザインとは縁もゆかりもない事務方に放り出される。とにかく純粋培養されているから、理不尽は納得できない、しかも大人になれない、弁も立たない。ただ睨みつけ、従わないだけだから、扱いにくこと、この上ない。

初めての社会生活が3年つづく。何も出来ない何も役に立たない、歯痒さと、情けなさ、誰とも擦り合わない自分を突きつけられた。何度もやめようと思った。そしてある時鎌倉研究所へ行った。まぶしいくらいの美しい緑、そして宮崎さんの笑顔を見た時、僕は涙が溢れた、いや恥ずかしくて必死に我慢した。
「負けてたまるか」そう思った。

やがてこのチームは、会社の方針で解体される事となる。施設は売却され、チームはバラバラになり、デザインと設計の僅か7人のチームとして東京のオフィスで働く事となる。宮崎さんはその生き残り組のというか、売れ損ないチームの内務として、東京通いをすることになった。通勤は遠くなったにもかかわらず、皆より1時間前には会社に来て我々が仕事を開始する準備をしてくれた。いつも元気で明るい宮崎さん。しかし社会に出た純粋チームの前途は多難だった。あまりものを言わない、ひたすら真面目、他人に干渉しない。この体質が、下請け型の設計、デザインにしてしまった。あの暑苦しい、クリエイティブ集団が物静かな業務推進チームへ変貌する姿を目の当たりにし、僕は悲しかった。宮崎さんが作り上げてきたあのムードが変貌していくのを見て、とても悲しかった。僕はチーム内のメンバーはおろか、開発企画のメンバーにすら噛みつき、吠え、あるべき論と、頼まれもしない提案をやり続けた。お陰ですっかり嫌われた。やがて、だんだん相手されなくなった。それどころか、僕への仕事が無くなり始めた。僕も「もう突っ張るのはやめよう、皆の迷惑になる、これからは開発に好かれるチームになろう」僕が呟いたとたんに宮崎さんの表情が変わった、そして「若杉さん、嫌われてもいい、どんどんやりなさい。開発なんか、解るわけがないのよ。そんなのに迎合しなくていい。もっと嫌われていいから。」あたりはシーンとした。僕らは目が覚めた。何のためのモノづくりか?思い起こした。

思えばいつも宮崎さんに助けられている。そして前に進む勇気をもらっている。そんな中で我々は自ら提案し、外部のデザイナーと手を組み新しい製品を生み出すチャンスがきた。これが結構ヒットした。試作、設計デザイン、組み立て、施行ほとんど自分たちでやった。言わば宮崎さんも含めた、初めてのチームプレイだった。宮崎さんは先頭を切ってモノを運び、組み立てに参加し、僅かばかりのショールームを毎日朝早くから掃除し、自らかのお金で花を買い、飾ってくれた。組み替えや、展示会に率先して参加してくれた。もう宮崎さんが動き出すと、やらないわけにはいかない。待ったなしである。宮崎さんのパワーにメンバーが一丸となって動く、そして皆で出来上がりを喜ぶ。
ささやかな個人商店のあつまりが、宮崎さんのノリでチームになっていく。宮崎さんは大きな声で一人一人の活躍を話題にし、喜び、笑い、そして喜びを増幅していく。知らない間にみんなお祭りに参加している。

ある時、僕のボス(細井さん)から宮崎さんの考課表にある、本人のコメントを見せてもらった。「おい、若杉、宮崎さんのコメントを見てみろ。素晴らしいぞ。」そこには「私はこの仕事、このチームに参加できて、とても感謝しています。このチームでつくった製品に参加し、モノを運んだり、組み立てたりぐらいしか出来ませんが、モノが生まれ、育っていく中に関われたことがとても嬉しいです。」とおそらく書いてあった。もっと書かれていたように思うが、泣けて読めなかった。細井さんと二人で感動してしまった。

宮崎さんは、定年を迎え僕らのチームを去っていった。しかし、先輩のチームに迎えられ幸いにも、この前まで僕らの近くで元気な声を聞く事が出来た。飲みが多い僕に、いつもリポビタンD ライトを2本差し入れしてくれる。そんな彼女も今年でいよいよ滅多にあえない存在になってしまった。まだまだ元気で、今度は幼稚園のお手伝いをされるという。きっとまた宮崎ムードを子供たちにつくってくれるであろう。
バレンタインに僕にくれた、宮崎さんのメッセージには「何よりも、若杉さんや、メンバーの楽しそうな声や、にぎやかな音を聞く事が出来なくなるのが残念です」と書かれていた。
そう、宮崎さんは僕らの音だった。いつも楽しく鳴り続ける、時には大きく、時には小さな音で。この音に慣れてしまった。この音のお陰でいつも寂しくなかったし、誰かがいるという実感があった。この音に踊り、歌い、そしてチームになった。お互いが鳴り響き、通じ合うことの素晴らしさを教えてもらった。我々こそ、この音が聞こえなくなるのが寂しくてしょうがない。
しかし、僕らの体の中には既に、宮崎さんのリズムや音が染み付いている。体から音が出てくるのだ。お陰で色々な素晴らしい人達の音や、リズムと合わせることの醍醐味を感じることが出来るようになった。
人には色々な役割や、音がある、どんなに素晴らしい音も、大きな音も、リズムも、聞き手や、共演する仲間がいなければ意味が無い。モノをつくるには意味がある。きっと、本当の意味をずっと解っていたのは宮崎さんだったのかもしれない。随分出来の悪い息子だった。
僕らは、いつまでも、この音を忘れず、もっと、もっと遠くまで、心に響く音にしたいと思っている。そして多くの仲間と共鳴して、宮崎さんに届くぐらいの音にしたいと思っている。

宮崎さん、まだまだ、聞こえないかもしれませんが、きっとそうなりますから、いつまでも、いつまでも元気で、耳を傾けていてください。
なあ、みんな!! さあ頑張るぞ!! お〜〜!!
(出来の悪い子供たちから ビッグママ 宮崎さんへ感謝の気持ちを込めて)

   
   
  宮崎さんおつかれさま会にて。若杉さん、中尾さん、そして千代田さんで宮崎さんを囲む。   入社以来10年近く、まわりの女性は宮崎さんだけだった、という奥さん。宮崎さんの明るさにずいぶん救われた。
   
  みんなで宮崎さんに絵のプレゼント。末宗美香子さんに宮崎さんのイメージをお話して、描いてもらった。   いつもこの笑顔。そして今にも聞こえる明るい笑い声。
 
 

おつかれさま会の後、宮崎さんを囲んでみんなで。このオレンジの紙袋は宮崎さんが持ってきてくれた堂島ロールケーキ(とてもおいしい!)。わざわざ並んで買って、一人でみんなの分を抱えてやってきた。こんな時でも、みんなが喜ぶためなら愛を惜しまない。

 
  鎌倉研究所からの宮崎ファミリー。左から立川さん、中尾さん、若杉さん、宮崎さん、岡本さん。
   
   
   
 
   
   
 
その後
   
  若杉さんのこの原稿を宮崎さんに送ったところ、とてもすてきなお返事をいただきました。宮崎さんらしい、暖かさ溢れるその文章をみなさんにもご紹介したいと思います。(WEB編集担当・ドウモト)
   
   
 

若杉様

このたびは身に余るおほめの文面を拝読してただただ恐れ入っており ます。
自分のこの気持ちをどう表現して良いのかわかりません。
感謝と感動で本当に涙しながら読ませて頂きました。
私はなんて幸せななんだろうと本当に感無量です。
大きな大きな幸せを本当にありがとうございます。
これからの残りの人生心の大きなささえとして生きていきます。
何だか支離滅裂で、言葉が見つかりませんがお礼メールとさせて頂きます。
これからも、ぜひぜひ前進されるであろう事を楽しみにしております。

私事ですが、現在保育園での仕事は今までグータラしてたせいか風邪は治らないわ、先日は若い先生達のまねをして柵を乗り越えようとして足が上がらずこけてメガネのフレームで大きなたんこぶを作り、その後はパンダならかわいいのに、おいわさん状態で大変な日々を送ってます。

いつか、保育園のベーベー泣く子が笑顔になるであろう日がくる事を信じ、若杉さんの文章で生き返りがんばってみます。
本当にありがとうございました。
おこがましい、言い方ですが、若杉さん文筆活動でもいけるのでは? すごい文章力ですね。

お陰さまで親戚のものにまで見直されてしまいました。
孫が読み、その母親からもメールが入りましたので一応読んで下さいませ。

   
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千佳に教えられて若杉さんの文章を読みました。会社生活は正直大変だったろうと思っていましたが、頑張ってきたかいがありましたね。
暖かい感謝の 言葉とエール。胸にじんときました。
人が仕事をつくり、仕事が人をつくるんですね。
五十を過ぎ、仕事の意味を見失いかけていましたが、ヒサコちゃんを見習ってもう一度頑張ります。
千佳にも素晴らしい手本になったと思います。(宮城で動物病院を開いている姪です)

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ありがとうございました。    宮崎

   
   
   
   
   
 
  ●<わかすぎ・こういち>インハウス・プロダクトデザイナー
株式会社内田洋行 テクニカルデザインセンターに所属するが、 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない
活動を行う。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長

 

 

 
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