連載

 
新・つれづれ杉話 第19回 「思い込み」
文/写真 長町美和子
杉について、モノづくりについて、デザインについて、日常の中で感じたモロモロを語るエッセイ。 
 
  今月の一枚

※話の内容に関係なく適当な写真をアップするという身勝手なコーナーです。

スーパーで半分割りになってるカボチャを買ってきたら、ミッキーマウスがついてました! 右手にあるのはお月様? 

 
カボチャ
 
 
 
 
 
    思い込み
 

近所に「建築家が設計しました」ということがわかる、ちょっとカッコイイ賃貸併用住宅があったのだが、最近オーナーが変わったらしく、ずいぶん様変わりしてしまった。以前は、前面の坂道側に植栽があって、その下の基礎兼よう壁は打ち放しのコンクリートだった。外壁はグレーのタイル張り、賃貸部分のベランダの手すりはパンチングメタルで、ゲートにはグリーンに着色されたI字型の鉄鋼が使われている。ま、いわゆるモダンな建物だったわけだ。

ところが、新しいオーナーはそれがまったく気にくわなかったらしい。打ち放しのコンクリートはチョコレート色のべっとりぶつぶつした吹きつけ塗装となり、植栽の外側に鋳鉄のグリグリ装飾がついた柵が取り付けられ、ベランダの手すりもそれとお揃いのものに全部変えられた。幾何学的なパターンのついたスチール製のオーナー邸玄関扉は、真ん中にステンドグラスをはめ込んだ木製ドアになった。そして、玄関灯に黄色いボコボコしたガラスの風船が変形したようなランプが付けられた。

以前のデザインが好きで入居を決めた店子もいただろうに、あんまりの変わりようである。この逆なら理解できる。中古のパッとしないふつうの住宅が代替わりしてモダンな外観の建物になってしまう、とか(それがいいとは決して言えないけれど)。でも、好きか嫌いかは別として、あるコンセプトのもとに考えられ、一応バランスが取れているということが誰の目にも明らかな建物のスタイルを、こうも自信を持ってめちゃめちゃに崩されると、共通の認識だと思っていることなんて、実は単なる思いこみでしかないんだろうなぁ、と改めて思い知らされる。「この程度のことは説明しなくてもたいていの人はみんな理解を示してくれるだろう」なんてのは甘いのだ。

つい先日も、住んでいる古いマンションの管理組合理事会で、それと同じようなことを感じた。70年代に建てられたこのマンションは、たしか大正時代からここにあった教会の牧師館跡の敷地に植栽をそのまま残すかたちで計画されたもので、昔は西武線の駅から丘の上の桜が見えたというくらい、立派な桜の巨木が中庭に林立している。桜だけでなく、秋にはカエデが真っ赤に色づき、イチョウの黄葉も見事で、クリスマスには6階建ての建物より大きく育ったヒマラヤスギに1日がかりで飾り付けが行われる。区の保護樹林にも指定されている中庭では、花見の会やヒマラヤスギの下でのクリスマスキャロリングなどが開かれ、近隣の住人も交えての交流会も盛んだ。

春夏秋冬の自然の豊かな彩りを、住民だけでなく地域ぐるみで愛している……と私は信じていた。事実、この中庭があることがここに住むいちばんのきっかけになったと言ってもいい。しかし、桜の寿命は短い。空を覆わんばかりに枝を広げる巨木も、台風などで枝が折れるようになっている。ヒマラヤスギにはカラスが巣をつくり、激しい鳴き声で目を覚ますこともある。大きくなった木々のせいで日当たりが悪くなった、と不平をもらす住戸もある。中には「いっそのこと全部伐って芝生にしたらいい」と言う人も出てきたらしい。いやはやなんとも……。

そればかりでなく、3年前の大規模改修の際に敷き詰めた浸透式の舗石ブロックが、下地が悪いせいかあちこちすぐに割れるのが問題になって、「以前のアスファルトの方がよかった」という意見まで出始めた。たしかに多少もろいのかもしれないが、雨水が地面に浸透する意味とか、蓄熱しにくいから夏涼しいこと、下水道工事の際に部分的に石を外すだけで済むこと、そんなことは改修の際に設計者担当者が説明していたはずだ。そのへんのことは、私が入居する前のことなので定かではないが、世間一般の常識として、こうした素材のメリット、デメリットは、街中の歩道や公園などに使われているのを見てだいたいわかるだろう、と思うわけだ。

しかし、それこそ思い込みというものである。理事会では、メンテナンスがちょっと大変だけど、それだけの価値のある素材だから使っていきましょう、という、前向きの意見はまったく出てこない。「割れたブロックにつまづくと危ない」「毎年お金をかけて補修工事をやるのはばからしい」「素材的に弱すぎる」「まず見栄えが悪い」「不動産価値を下げるかもしれない」長く住む古参理事たちの意見はそんなのばかり。中庭の木を全部切ってしまえ、という過激なことを言うのも、30年前はもっと明るかった、という分譲当時のイメージを覚えているお年寄りたちだったりする。

たかが200戸のコミュニティで、それも地域の雰囲気としてはみなさんそれなりに豊かで、知識も意識も比較的高いと思われる人々であっても、こちら(雑誌などで情報発信している身として)が当然と思う感覚や情報が隅々まで行き渡っていない。まぁ、そんなもんなんだろうな。考えてみれば、実家のダイニングの蛍光灯をやめさせるだけでもあれだけ苦労したんだから。……無力だ。

救われるのは、小さなコミュニティであっても、一つの意見に押されてドーッとなだれ込む心配がないこと。誰かが何か言えば、たとえ見当違いでもものすごい労力と時間をかけて反論する人が必ず出てきて、それをまたかき混ぜる人が出てきて、放っておいても10年くらいまとまりそうにないから、たぶんこの中庭と舗石問題も当分このまま何も変わりなく「引き続き審議」が続行されるのだろう。議論好きの年寄りが多いというのは、その点安心できていい。

新しい考え方が浸透するのも時間がかかる。でも、きっと気づかない程度に物事は動いているんだろう。何事もじわじわゆっくりでいいのかもしれないな、と、結局何も言えなかった新参者(それも悲しい)は理事会の帰り道に自分を励ますのだった。

 

 

   
   
   
   
   
 
 
  <ながまち・みわこ>ライター
1965年横浜生まれ。ムサ美の造形学部でインテリアデザインを専攻。
雑誌編集者を経て97年にライターとして独立。
建築、デザイン、 暮らしの垣根を越えて執筆活動を展開中。
特に日本の風土や暮らしが育んだモノやかたちに興味あり

   
   
 
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