連載

 

杉と文学 第3回 『草枕』 夏目漱石 のその2

文/写真 石田紀佳
4コマまんがのおまけもあります
 
   
 

『草枕』 夏目漱石 1906年

   
 

前回、原稿を出したあとほっとして草枕を読みついだら、もう一ケ所、スギがありました。なにもしらみつぶしにする必要はないのですが、スギをダシにもうしばらく草枕の薮の中で遊んでみることにします。

わたしが読んでいるのは新潮文庫の「草枕」。その129ページ目なかごろからはじまる十一章に杉が出ます。主人公の画家は、逗留先のそばにある寺をたずねます。ただし、和尚に用事があるわけではなく、「無責任の散歩」だそうです。十一章はその散歩からはじまり、130ページもおわるころになって杉が出るのですが、それまでは植物はひとつも描かれていません。杉が出てからも約1ページ半にわたって、植物はありません、岡つつじの生垣が出るまでは。よって、約3ページにわたって杉以外の緑はない世界です。しかもその唯一の植物である杉は、彼の思い出の中の景色です。この3ページには、寺への石段をのぼりつつ、つらつら思うことを書いています。まるで石庭での瞑想のよう。いや瞑想にしては雑念多すぎかな。。。

では、杉の出る回想シーンを以下に。

「石段の上で思い出す。昔し鎌倉へ遊びに行って、いわゆる五山なるものを、ぐるぐる尋ねて廻った時、たしか円覚寺の塔中であったろう、やはりこんな風に石段をのそりのそり登って行くと、門内から、黄な法衣を着た、頭の鉢の開いた坊主が出て来た。余は上る、坊主は下る。すれ違った時、坊主が鋭い声で何処へ御出でなさると問うた。余は只境内を拝見にと答えて、同時に足を停めたら、坊主は直ちに、何もありませんぞと言い捨てて、すたすた下りて行った。あまり洒落だから、余は少しく先を越された気味で、段上に立って、坊主を見送ると、坊主は、かの鉢の開いた頭を、振り立て振り立て、遂に姿を「杉の木の間」に隠した。その間かつて一度も振り返った事はない。」

ほとんど色のなかった世界に黄色の衣と杉の深い緑。その後、山門を入った画家はがらんとして人影のない庫裏や本堂で、うれしさを感じ、その気持ちを次のように書きます。

「世の中にこんなに洒落な人があって、こんな洒落に、人を取り扱ってくれたかと思うと、何となく気分が清々した。」

なにかを探しているような若い画家に「なにもない」とだけいって、杉の木の間に姿を隠した頭のでかい坊主は、画家にとってまるで天狗のようです。杉に天狗はつきものですからね。

それにしても、「昔し鎌倉に遊びに」という昔とは、いつなのでしょう。草枕の中で画家はどうやら30才くらい。(ちなみにこれを書いた当時の夏目さんは「坊ちゃん」を発表したころで、39才)
わたしの経験から憶測すると、たぶんそれは20代前半。もっとも、経験は人それぞれだし、明治時代の若者は今のわたしなんかよりずっと(精神が)大人びていたでしょうから、年令ではいえませんが、まだ人のふるまいをそのままに感じられる年ごろ、だったのではないでしょうか。そして天狗というのは、そういう時期によくあらわれるように思います。天狗的なものが、人間の姿をかりてあらわれるのです。海外旅行をするとかそういうことばかりでなく、その時期はまるでいつも旅人のようで、その日常と非日常をどうしたらいいかわからない日々の中で、天狗にあうのです。バイト先や喫茶店、飲み屋や出発待ち合い室で隣り合わせたり、きっといろんなシーンがあります。わたしも、今になって、そういえば...、と何人かの天狗にあっていたことを思い出します。
残念ながら杉が背景にあったかどうかはおぼえていませんが。

あっ、そうそう天狗には決してついていってはいけません。杉の木の間に消えていくのを追うことはできないのです。

   
   
   
   
   
 
 
 

 

●<いしだ・のりか>フリーランスキュレ−タ−
1965年京都生まれ、金沢にて小学2年時まで杉の校舎で杉の机と椅子に触れる。
「人と自然とものづくり」をキーワードに「手仕事」を執筆や展覧会企画などで紹介。
近著「藍から青へ 自然の産物と手工芸」建築資料出版社
草虫暦 http://xusamusi.blog121.fc2.com/

   
 
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