新連載

 

杉と文学 第2回 『草枕』 夏目漱石

文/写真 石田紀佳
4コマまんがのおまけもあります
 
   
 

『草枕』 夏目漱石 1906年

   
   
 

杉と文学、という題目で新連載をはじめてしまいましたが、白状すると、わたしには文学ってものがなんなのかよくわかっていません。ただ、小説であれ随筆であれ、詩であれ、ときどき、ものすごく、自分じしんに染み込むことがあります。日ごろ意識せずとも悩んでいたようなことが、ふっきれそうになったり、なお深まったり、します。あぁ、このことにひっかかていた、ときづかされたり。
今回の「草枕」も染みます。熟読しているわけではないのですが、ところどころをごくたまにくりかえして読みます。その何度目かの時に、杉が出ていて、「まあ!」と感慨を深くしたので、この連載を書く時にはかならず「草枕」をいれようと決めていました。にもかかわらず、いま、ざーっと目を通してもたくさんの杉は出てきません。あまり時間がとれないせいもあって、2ケ所しかみつけれらません。困った。。。どこかとばしているのかもしれない。けれども締め切りもすぎていますので、ひらきなおってこの2ケ所ですますことにします。お許し下さい。

その1
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」という有名なフレーズは草枕の冒頭、主人公が山路をのぼりながら考えていたことです。
そして、「どこへ越しても住みにくいのだと悟った時、詩が生まれて、画が出来る」とすすみます。彼はなお山路をのぼりながら考えを漂流させます。考えに気をとられていたせいか、がたついた石に足をとられてしりもちをつきます。しかし怪我もなく立ち上がったときです、遠くに「杉か檜かわからないが根元から頂きまで悉く蒼黒い」と常緑の山林をみつけるのです。
日本全国スギダラケ倶楽部のみなさま、「なんだ、杉が檜かわからないんじゃないか」と気を落としたり、怒ったりしないで下さい。この「杉か檜かわからない」というひとことで、遠近感がかもされ、夏目漱石の正直さや、文章のリアルさがあらわれるのですから。だってそうでしょ、たいていの人には遠目の常緑の山に植わっているのが杉か檜かなんてわからないものです。けれども、山桜はわかるのですね。この杉か檜かわからない蒼黒い景色の中に薄赤い山桜が棚引いていました。そして杉か檜が伐採されたのか、手前には禿山があり、そのてっぺんに赤松が一本見えるのです。たぶん赤松だろう、と書いています。幹の色が見えたのでしょうか。

その2
「私が身を投げて浮いているところを、苦しんで浮いてる所じゃないんです、やすやすと往生して浮いている所を、奇麗な画にかいて下さい」と女にいわれて茫然とするシーン。そこから一転、絵描きは女がいった池に行くのにお寺の「裏道の、杉の間から谷へ降り」る。池の縁には熊笹が多いが、壺菫もちらほらとあります。
先に女がいったセリフは、ラファエル前派のJohn Everett Millaisが描いたオフィーリアの絵を想定して書かれたのでしょう。どこかで夏目漱石はこんな女性が好みだったというのを読みましたが、それはさておき、植物の細かな写生描写に彼は共鳴していました。そういったことを多少知っているわたしは女のセリフであの絵を思い浮かべます。しかし、頁をめくって、「寺の裏道の杉」というのでまったくの日本の風景にいくのです。杉、熊笹、菫。そういった景色の中で主人公はたばこをすったり、水をのぞいたりします。そうして、その池にあの女を浮かべる絵を夢想します。しかし、顔はいいが、表情が駄目だというのです。いったいどういうことでしょう。
今回読み返してみて、その表情のことがわたしなりにとけてきました。杉のおかげでした。

   
   
 
   
   
 
  杉苗すみれ
   
   
   
 
 
 

 

●<いしだ・のりか>フリーランスキュレ−タ−
1965年京都生まれ、金沢にて小学2年時まで杉の校舎で杉の机と椅子に触れる。
「人と自然とものづくり」をキーワードに「手仕事」を執筆や展覧会企画などで紹介。
近著「藍から青へ 自然の産物と手工芸」建築資料出版社
草虫暦 http://xusamusi.blog121.fc2.com/

   

   
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