特集 油津 [後編] 夢見橋の使い方

 
続・油津木橋記<完成編>(後編)
文・写真/ 小野寺 康
 
 
  □ コミセンへのメッセージ

熊田原工務店によって本施工が始まる頃には、地場材、伝統工法、地元職人の手になるこの木橋が、耐えざる議論の中から、しかも日南大工の職人技によって設計が整い、実際に施工に及んでいることが市民の間で評判になっていた。地方新聞やローカルニュースでもたびたび取り上げられ、油津港湾事務所や熊田原さんがインタビューを受けるようになってきた。(この『月刊・杉』が、その一助として強力に働いたことも、贔屓目ではなく事実である)
やがて日南市の有志が、「飫肥杉木橋の架橋プロセスそのものをイベントとして楽しみたい」また「多くの人に飫肥杉の良さを知ってもらいたい」との願いを込めて、2007年3月15日に実行委員会を立ち上げた。その名も、『堀川に屋根付き橋をかくっかい実行委員会』。「かくっかい」とは、日南弁で、架けようかい!、架けようじゃないか!、という意味。
熊田原さんもメンバーになって、自らイベントに参加した。

 

またこの勢いで2007年4月、日南市に、特産の飫肥(おび)スギを活用した地域活性化策を検討する「飫肥杉を核としたまちづくり推進プロジェクトチーム」(通称=「飫肥杉課」)が設置された。6課8係の9人で構成するその活動は、メンバーの一人である河野健一さんが立ち上げたWebサイト『オビダラ日記〜飫肥杉だらけのまちづくり〜』に、大変詳しく紹介されている(http://obidara.exblog.jp/)。
この飫肥杉課と「かくっかい実行委員会」が中心となって、地元広報などの様々な活動が始まった。最も重要なのは、「コミセン(込み栓)」という、主材をつなぐ堅木の桜材に、地元小学校の生徒を中心に市民から4千人のメッセージを集めたことだろう。このコミセンは、橋が完成すれば主材に埋もれて隠れてしまう。将来の修繕工事などでのみ見ることができるものだ。だが、その運動がまたニュースとなり、さらに地元の人たちの話題となった。
橋の名称募集も彼らの企画だ。
橋名には、最終的には1,200点以上の応募があった。これを選考委員会で数案に絞り込んだ後、油津中学校と油津小学校、桜ヶ丘小学校で投票されて決定である。最後は子供たちが決めるというのが日南らしい。

   
 
  施工中の木橋
   
  コミセンに書き込まれた様々なメッセージ   みんなの思いが込められた
   
   
  □ 現場に呼ばれない

たしかに現場施工は始まった。
いつもなら、初回に役所と工事会社の打ち合わせに我々設計者も参加し、プロジェクトの意義や設計の意図、施工の留意点などが議論されるのだが、すでにさんざん議論をし尽くしたこの現場にその必要はない。では中間にときどき打合せするかというと、他の現場なら最低でも月に1回は現場打ち合わせが必要になるところだが、途中途中はメールやFAX、電話でのやりとりこそあれ、現場を見てくれという要求は一向に来ないし、こちらもどのタイミングで行くべきなのか読み取れないまま日々が過ぎていった。
Webサイト『オビダラ日記〜飫肥杉だらけのまちづくり〜』で現場の進捗状況を知るというのも、冗談ではない状況だった。
――いかん。本当にこのまま行かないで済ませるわけにはいかない……
我々東京チーム(小野寺康都市設計事務所、空間工学研究所)は、ついに勝手に行くことにした。6月8、9日で現場を見た。
「見た」というのが情けない。
打合せすることが全然ない。
熊田原さんも、
「大丈夫ですよ。全部分かってますから。もう来なくていいです」
と笑うばかりでにべもない。空間工学研究所の担当・萩生田さんも、いろいろ準備や覚悟をしていただけに、これにはガックリ。かつてそんなこと言われたことないのだ。
しかし、本当にしっかりと施工が進んでいた。
「これを見てください」
熊田原さんが指し示す先には主桁をつなぐ大型のコミセン(込み栓)があった。
「これに東国原知事のサインが入っているんですよ。これをですね、竣工式のときに知事に叩き込んでもらうとですよ」
そういって、にっかりと笑う。
そうだ本当にできるかどうかやってみよう、というと、熊田原さんはいきなり職人たちを呼び集めた。
今これを抜いて、仮のコミセンを入れておくのだという。
大きなバールを突っ込んで、当て木の上から部材をがんがん叩き始めた。
ぐいぐいと力を入れるが、意外と硬い。
「ええい、硬いなあ」
なおも力を入れると、バリバリと木が軋みだした。
「え……ちょっと、もういいんじゃないですか」
と私は思わず言ってしまった。――壊れるんじゃないか。
「大丈夫ですよう、ふんっ!」
バキイ!
抜けた。
いやー、さすがに職人たちは、どの程度力を入れていいのか完璧に分かっているので、まるで平然としている。こっちはどこまでやるのかとひやひやした。
コミセンに東国原知事のサインが見えた。木橋はもちろん無事である。
このとき本当に、この現場は私の手から離れて、それでいいのだと思った。

   
   
東京チームの現場視察。やることなし。眺めるだけ
  東国原知事のサイン入りコミセンを、文字通り「たたき出す」   東国原知事のサインが入った主桁コミセン
   
  職人さんたちと一緒の記念写真はとても貴重。みんないい顔してます。   この日ほんとに打ち合わせなしで終わった
   
   
  □ 生きていく、そして死んでいくために

6月24日の日曜日、上棟式がとり行われた。
上棟式、といっても工事の進捗が早くて、棟どころか屋根が葺き上がっている。しょうがないので、トップライトの木組みを吊り上げて「棟上げ」ということにした。この日は本当に焼けるような暑さだったが、三千人もの市民が来てくれた。
強い日差しに、銅版が輝く。

上棟式というのは本来神事であり、簡素に厳かに執り行われてオシマイである。餅撒きが最大のイベント、というのが普通だ。ところが我らが「南のスギダラチーム」は、ほとんど勝手に催しを企画。パネル展示や、木橋クイズ(当たると景品)、木橋の成り立ちを語る紙芝居の上演などを、ゲリラ的に実行した。
これが大変に評判がいい。子供たちは大喜び。「かくっかい」の皆さんにも、
「いやー、来ていただいてよかった」
とねぎらわれ、めでたく
「竣工式のときにもよろしくお願いします」
という言葉を引き出したのでありました。

上棟式には、私や、プロジェクト全体の監修者である篠原修教授(元・東京大学、現在・政策研究大学院大学)も出向いて、挨拶させていただいた。
そのときの篠原先生の言葉が印象深い。
いわく、この油津堀川運河は、あなた方のお父さんやお母さん、お祖父ちゃんやお祖母さん、さらにその前の人たちが見ていた風景にこの場所を戻そうとするものです。人は一人で生きているんじゃありません。亡くなった人が見ていた風景を自分たちが見て、また自分が死んでしまった後に、みなさんの子や孫も見ていくことが素晴らしい。だからこの橋も、観光客のためじゃなく、そんな地元の人たちがが使う橋として創りました。油津に生まれて良かった、油津で育って良かった、少しおかしな言い方ですが、油津で死んで良かったと思ってほしいです――。

   
   
  □ 台風4号襲来

2007年7月14日。橋は、竣工までまだ1ヶ月以上を残している。
東京では、スギダラメンバー(日本全国スギダラケ倶楽部)が、新宿の工学院大学で開催された「全国都市再生まちづくり会議2007」に出席していた。宮崎大学の吉武哲信准教授と「南のスギダラ」広報宣伝部長・春杉さん(じつは吉武夫人です)は早くに出発したため、なんとか東京入りできたが、登壇する予定だった日向の海野洋光さんは遅刻。急遽吉武先生がピンチヒッターで登壇。その結果(?)なんと、最優秀賞である「まちづくり大賞」を受賞してしまった(http://sugidarake.exblog.jp/7131309/)。
遅れてたどり着いた海野さんも交えて、新宿の居酒屋で受賞の祝杯を重ねていたときである。

「風速55mを越えた!?」
「ええ、越えたそうですよ」
この屋根付き木橋の最大の懸念は地震ではない。風だ。
風速40mともなると、もはや人は立ち歩けない。家屋の壁は外に膨らむような形できしむ。50mを超えると通常の木造家屋は倒壊の危険にさらされる。風速55mは、台風のメッカである宮崎県日南市にしても観測史上空前である。この橋の耐風強度は60m。許容範囲内とはいえ限界に近い。さらに、完成した状態ならまだしも、竣工式までまだ1ヶ月以上も残している。施工の途中で台風が来ることを何よりも恐れていた。
そして、悪魔のようにそれが来たのだ。

屋根は仕上がっているはずだから大丈夫だろうと思いつつ、携帯電話がつながる油津港湾事務所の元担当者・那須紘之さんに連絡を取った。
「何か聞いてますか?」
「私のところには何も。すぐ油津港湾事務所に連絡を取ってみます」
私の横では、木材WG(ワーキング)のメンバーである、地元建築家の作田耕一朗さんも、電話で油津に連絡を取っていた。
周りが祝杯に沸く中、私とその至近だけは何やら表情がさえない。酒の味がしない。
「あ、大丈夫ですか。そうですか」
と、作田さんの声。やや弾んだ声で大丈夫だそうですよといわれたそのとき、那須さんからも電話が入った。
「油津港湾も心配で見に行ったそうですが、全く無事だそうです」
――やれやれ。
後日、熊田原さんにそのときの状況をお聞きした。
「いやー、台風が近づいているっていうので、仮留めのブレース(斜め材)を付けっぱなしにしといたとですよ。でもまあ、全然平気でしたな」
また別の機会に、今回の木橋構造を手がけた構造設計家の岡村仁さん(空間工学研究所)にも話が聞けた。
「あ? 何にも心配なんかしなかったですよ。壊れる? そんなわけないですから(笑)、全然気にしてませんでした」
さすがである。
この一件によって、かえって強度が実証された形となった。それまで「屋根はいいが、台風ですぐにやられるのではないか」と懸念する声が少なくなかったが、竣工前にそれが杞憂であることが証明され、多くの人々が一層この木橋の価値を認める結果になった。

   
   
  □ 光り浮かぶ天蓋

ライティングは重要だ。この橋は、昼間はトップライトからの光が曲木のスリットで拡散されつつ、やわらかく降り注ぐ。
夜間は逆に、曲木の天井をライトアップさせようと考えていた。外から見ればトップライトから夜空へ光が漏れ出すだろう。屋根だけでなく、足元にも明かりが欲しい。
照明実験をするというので宮崎に出向いた。ランプの種類や点灯方法を実際の器具を使って確かめるのだ。だが、そこで1時間半にわたる大議論になろうとは思っていなかった。

   
  何が問題だったのか。
ランプの数である。
小さくても構わないが、ある程度の数のランプを入れないと、この屋根のライティングは完成しないと思っていた。だが、宮崎県油津港湾事務所は、管理者として
「必要最小限」
しか付けられないという。
それはいい。だが何を持って必要最小限とするかが問題だった。
   
  柱のスパン、3m。この間に1箇所ずつあれば十分、という油津港湾に対し、2箇所にしてくれと私。
「だって貧相ですよ。これだけの橋です。夜目に毎日見る人もいれば、イベントもやろうとなるでしょう。そのとき、1箇所ではあまりにも寂しい。みじめです」
「1箇所でも十分だと自分は思いますわ。屋根がどんな形か十分わかる」
「形が分かるだけじゃ十分じゃないんです。ぼんやりとでいい、屋根が光で浮かび上がることが重要なんです。みんな感動しますよ」
「そうかなあ。3mに2箇所は、やり過ぎっちゃわ」
弱った。平行線だ。
「……。あのね、柱間に1箇所ずつだと盆踊りなんですよ」
「何のことですか」
柱間に1箇所ずつだと2拍子になる。パン、ポン、パン、ポン。2箇所ずつだとリズムが変わる。タタタン、タタタン。断然この方が華やいでくる。といって、夜半に街角で手拍子を打っていたのは私である。つまり、思いつくことは何でも言った。
さまざまに説得した。
もし寂しいといわれたらどうしますか。ランプはLEDだ。半永久的に持つので(正確には10〜20年くらいで光量が半分くらいに減衰するらしいが)、ランプ交換という管理は無用だ、等など……。
 

夜の街角で1時間半。
最後は油津港湾事務所が折れてくれた形だったと思う。
いうこときかねー奴だ、と思われたに違いない(もうとっくにそう思われているだろうけど)。
港湾事務所の皆さんには申し訳ないが、あそこで私自身は折れる気が全くなかった。ここは間違いなく正念場だと思っていた。それほど重要だし、必要だと確信があった。きっと完成したら、街の人の表情で分かってくれると信じて――。

 
   
   
  □ 竣工式
   
 

2007年8月26日。
ついに竣工式を迎えた。
前夜に油津入りした我々は、したたかに痛飲し、ややぼんやりした頭で午前11時からの祝典に出向いた。構造設計家の岡村さん、萩生田さん、腰原さんらも来た。私の事務所はスタッフ総出である。自分らが設計したものが完成して、人々に喜ばれる姿を見ることは重要だ。次の設計の内実につながっていく。
その日もまた、空は青々と晴れ渡った。盛夏とはこの日のことをいうのだろう。陽射しでぶん殴られるような猛暑である。
にもかかわらず、人気者の東国原知事の出席ということもあり、上棟式をはるかに超える人々が運河に集まってきた。文字通り人出で身動きならない。大本営発表は実に五千人。
「知事が遅れています。少し話を引張ってください」
なぞと言われながらも、私と篠原修先生はまた挨拶の機会を得た。
「かくっかい」委員長の細田勝・市議会議員から上棟式のときにも、
「よく聞かれて困るので説明してください。なぜこんなに屋根が長いのか、どうして傾いているのか、トップライトはなぜ入れたのか」
といわれていたので、この際きちんと話すことにした。
この橋ができる経緯から説明した。
運河対岸に見える「時計台」を建てた戸田禮子さんが、市民会議の中で「屋根付き橋がいいと思います」といわれたところから説明した。
その戸田さんは、この橋の竣工を見ることなく、もはやこの世にいない。
話をしながら、私はきっと「戸田のおばちゃん」はこれを見ていると思った。私は別にサイキックではない。霊感も霊能も何もないのだが、きっと見ていると信じて、空を意識しつつ話をした。
屋根が長いのも、傾けたのも、まちと運河をつなぐため。街の人々を“どうぞ運河へいらっしゃい”と迎え入れる形からです。そしてこの長さと傾きは、微妙に遠近法を歪めさせ、異世界に引き入れる不思議な感覚を与えてくれます……。
そんなことを話しながらも、
「だって、水の上に屋根があると涼しくていいと思うの」
という戸田のおばちゃんの言葉を思い返していた。
本当に涼しいのだ。
物理的な温度というより、体感温度として劇的なものがある。涼んだ川風が、吸い込まれるように屋根下の空間を抜けていく。快感といっていい。
戸田さん、貴女の言葉は、私の期待をはるかに超えた次元で実現しました。貴女は本当に正しかった……。

やがて、東国原知事が登場した。
さすが県民支持率95%を誇るだけに、すさまじい人気である。拍手が巻き起こり歓声が上がる。なにしろ「追っかけ」がいる。知事の行程を把握していて、
「次に知事はこことここに行くから、私たちが食事するのはここね!」
なぞと、ご婦人たちが騒いでいる。
挨拶に、イベントに、知事は大活躍である。
主桁をつなぐ大型の「込み栓」に、あらかじめ知事のサインをもらっており、これを竣工式で橋に叩き込んでもらうといっていたが、それも実現した。知事は振りかぶって自分のオデコを殴ってしまうという「小ネタ」を披露しつつ、会場を沸かせていた。
命名式が行われた。子供たちが選んだ名称は、「夢見橋」である。
事前に聞いたとき、何ともセンチメンタルな名前だなあ、と私は思っていた。橋名の選考委員でもある篠原教授は、この結果に至極ご不満のようだ。
「選考委員で絞り込んだあと、最後に子供たちに選ばせるというのが間違っている。油津の風情がまるで感じられない名前になった」
気に入らない、という。
『堀川屋形橋』にしたかったらしい。
もちろんそれも最終候補に残ったのだが、子供たちにとって「夢見橋」はダントツだったそうな。
式典は粛々と続く。
テープカットの後は三代渡り初め。地元にお住まいの三世代夫婦に与えられる栄誉である。子供たちも入れると、実に四世代が出揃った。慶賀。
式典が終わった後は祝祭である。
獅子舞、龍踊り、エイサー踊り、丸太の玉切り大会……。
我らが「スギダラチーム」も、木塊を金魚に見立てた「木塊すくい」や、杉屋台のカフェなどで賑わっていた。

   
 
  猛暑にもかかわらず、竣工式には5千人が集まった
   
  サイン入りコミセンを木橋に打ち込む東国原知事。   さすが元タレント。人を楽しませる。
   
   
  □ 満月の夜

夕暮れになり、照明が点灯した。
高欄に埋め込まれたライトが足元を照らし、天井の曲木が鮮やかな光のアーチを重ねて浮かび上がった。
「いやー、やっぱり照明を2個ずつ入れて正解だっちゃわ」
そういうのは、あの夜、街角で1時間半を議論した油津港湾事務所の永井課長である。
「半分ずつも点灯してみたんだけど、やっぱり断然全部つけたほうがいい。さすがデザイナーじゃねって皆でいってたんですわ」
そういって、頭を掻きながら笑ってくれた。
よかった。

 

実はこの件にはオマケがある。施工が始まって現場に行ったとき、曲木を照らすライトが収まったボックスが取り付いていた。ライトボックスも木製である。
ああ付いたのだな、と思ってよく見ると。
ん? 余分にでかくないか?
「実は、曲木の真下は留め付けの木栓が入っていて、配線ができんとですよ。曲木の間から配線して、安定器も入れることを考えると、どうしても横に張り出してしまうんですねえ」

 

えーっ? 何とかならないかと思い、図面を引っ張り出して、小一時間検討したのだが……。どうにもならない。
それでも、その後そのボックスは3度も作り直したのだという。ライトの効果が最善となるポジションでは、歩く人から光源が見えてしまうことがわかって作り直し、などということを繰り返していたのだ。
手摺りの中にもダウンライトが加工された。木材をくり抜いて、下向きに器具を組み込んである。かなり足元が照らされて効果があるのだが、あまりにも完璧に収まっているため、多くの人が器具の存在に気付かない。
だが最も驚くべきは、立ち上がりの配線である。どこにも見えない。
外付けでモール配線が柱を登る、などという無粋はもちろんあり得ない。熊田原さんにいわれて探し回ったのだが、どこにも配線が見えない。
「降参です。どこに収めたんですか」
熊田原さんは最端部の柱を指差した。この中央を、細いドリルで慎重にくり抜いて孔を空け、そこに配線したそうだ。3m以上ある柱の芯をくり抜くとは、何とも脱帽である。

       
   
  木製のライトボックス   みんなで完成を祝う
   
  ライトアップされた木橋を眺めやりつつ、その袖にある、ボードデッキ・テラスにテントが並べ立てられ、その下で酒宴がはじまった。モクモクと焼かれる地鶏の炭火焼。目玉焼きをのせた焼きそば。そのほかにも諸々の地料理、焼酎がふるまわれた。
市民の方々、「かくっかい」の皆さん、石屋さんや大工さんと森林組合の皆さんと、労苦をねぎらいつつ杯を重ねた。
「いいものができたなあ」
「みんな妥協せんもんね。どうすんのって、何度も頭を抱えましたわ」
「よく頑張ったなあ」
「あのときは大変だったんよ」
「熊田原社長がすぐ暴走するからね」
「誰かギネスに登録しないっちゃろか」
「焼きそば旨いね」
「わーっ、雨が降ってきた」
実に騒々しい。
  私はというと、楽しく飲みながらも全然酔わない、食欲もない、というか食べたいという意識が起こらないという、妙な感覚に落ちていた。
 

時おり酒席を離れて木橋に出ると、光のヴォールト(丸天蓋)の中を人々が三々五々歩いたり、ベンチに腰掛けたりしている。光の弓がリズミカルに重なりながら、緩く傾いた屋根形状がパースペクティヴを狂わせて幻想的な雰囲気を醸し出している。
夢幻、という言葉が頭の片隅をかすめたとき、夢見橋、という名前も悪くはないかなと、そのとき初めてそう思った。

   
 
   
 
   
 

焼酎の入ったコップを片手に橋のベンチに座り、川風に吹かれながら空を仰いだ。月明かりには雲がかかって朧になっているが、今夜は満月のようだ。
――あれ? 満月に見える。でもそんなことないわよね。
――そうそう。昨日の夜見たときは、半月がすこし膨らんだくらいだったもの。
周囲でそんな声が上がる。幻覚か? 自分は酔っているのか? いや、藍色の夜空にかかるのはやはり、満月に見える。周囲の人々も異口同音だ。
酒が回らずどんどん冴えていく感覚の中で月を眺めながら、一体この不思議な夜は何なんだろうかと思った。次第に周囲の声まで遠のいていくようにぼんやりしだしたと思ったら、やがてテント下の酒席がお開きになった。二次会行くぞー、の声とともに、街なかに繰り出していく雰囲気だ。
私は、何となく去りがたい、というか、この夜を捨てて建物という人工的な「箱」の中に入る気には、とてもなれない気分だった。
「行ってください。後から行きますから」
3年前に運河の第一期工事竣工の後、私は、二次会を抜け出して運河に戻り、ベンチの上で寝込んでしまった。それを知っている人たちは、小野寺が行かないのはしょうがない、と思ってくれたようだ。
だが、去りがたいのは私ばかりではなかった。
「僕もいいや。先に行ってください」
「私もしばらくここで」
十数人が残った。
朧月夜に夜風が涼しく心地よい。
やがて人通りが少なくなったのをいいことに、橋の床板に寝転がる輩が出始めた。石工の井野畑さんは、つめたくて気持ちいいですよといいながら、やはり石の上に寝たがる。
ベンチに横座りになって運河を見た。このベンチは横向きに座ると、肘が欄干にかかって水面を眺めやることができるようにできている。高欄の上はコップが置けるほどに広くしてある。
とても気分がよかった。
やがて、スナックに行った人たちから
「早く来い」
と催促の電話が掛かってきた。そのたびことに、何人かが出向いていったが、結局私はそこに居続けてしまった。
ついに、二次会に行った連中が、ホテルへ帰る道すがら戻ってきた。
「呼んでも全然来ないんだもんなー」
「すみません」
「小野寺さん、まだ居ますか」
「いや、……もう、私も帰ります」

 

ようやく腰を上げ、名残惜しさを一抹に感じながら帰途に付いた。
途中、藍色の天空を見上げると、月はどうしてもやはり、真円に見えた。実は翌日東京で見た月は、四分の三をはるかに欠けるほどのものだった。その夜は満月のはずはない。木橋を振り返ると、月明かりを受けて、屋根がにぶく光っていた。上棟式のときは艶々としていた銅板も、すでに赤みを帯びてくすんでおり、落ち着いた風情となっている。
――この橋は、私が創った。
ふいにそんな声がした。
そう、この橋には、そう思っている人が大勢いる。プロジェクトに関与したすべての人たち、エンジニア、職人さん、子供たちもまた……。
幸福な橋である。
再来年の春には、橋の周りの全ての整備が完了する。水辺公園の中に、この橋は居場所を得ることになる。堀川運河の完成はもう目の前だ。
ゆるやかな風の中を、我々は静かに歩いた。
通り過ぎる車の音さえも、穏やかだった。
ヘッドライトの光が、時おり私たちの足元を照らしていた。  

   
 
   
 
<終>
   
   
 

注記
写真の一部を、HP「オビダラ」サイトから転用させていただきました。河野さん、無断転用をお許しください。みなさん、このHPは実に楽しく充実しています。ぜひお立ち寄りください。
最後の3枚の写真は、宮崎県の井上康志さん(50スギさん)が撮ってくれたものです。井上さん、ありがとうございました。

   
   
   
   
   
 
 
  ●〈おのでら・やすし〉 都市設計家
小野寺康都市設計事務所 代表 http://www.onodera.co.jp/
   
   
   
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