新連載

 

杉と文学 第1回 『虔十公園林』 宮沢賢治 作

文/写真 石田紀佳
4コマまんがのおまけもあります
 
 

日本語で書かれた文章の背景にさりげなくあらわれるスギ。木立であったり、葉であったり、または材としてのスギであったり。スギを知ることで物語のイメージが広がります。映像、感触、香りまでが浮かぶのです。かつて読んだ小説や随筆など、もう一度読み返してみるのもおもしろそうです。

   
   
 

『虔十公園林』 宮沢賢治 作

   
   
 

「お母、おらさ杉苗七百本、買ってけろ。」
何一つ頼みごとをしなかった虔十がはじめて家族にお願いしたのは、「運動場くらいの野原」にスギを植えること。
近所の子供たちからも「少し足りない」とバカにされる虔十が、どうして杉苗を植えようと思い立ったのかはわかりません。けれども虔十は「杉を植えても育たないところ」といわれた野原に何かを感じたのでしょう。ブナの葉がチラチラ光るのや、青空をかけるタカをみつけては心から喜ぶ人だったのですから。
それは物語の最後にアメリカ帰りの若い博士の「ああ、全くたれがかしこくてたれが賢くないかはわかりません」という言葉につながります。
もっともここにアメリカ帰りのインテリをもってこなくてはいけないところは今とかわらず、なさけなく、皮肉なところですね。賢治がこの小品を書いたのはもちろん太平洋戦争前ですが、ひょっとすると非常に日本的なスギ、ともすれば国粋主義になりかねないスギ、と、アメリカという外を対比したのかもしれません。

   
  実はわたしはこの物語を一昨年はじめて読みました。スギについてあれこれ意識しだしてからのことです。そのせいもあるのでしょうか、はじめて読んだとき、お話のあるところで大泣きになりました。今回、読み返してみてわかったのは、わたしが一番涙ぐむところはスギとは直接関係ないのですが、賢治が描写するスギの木の姿をありありと思いおこせるからこそ、物語にいっそうひきこまれるのだということです。
かのスギぼっくり君も「鳶色の実」としてちゃんと出ているんですよ。
   
  とても短い作品ですので、ぜひご一読を。短いからこそ、一語一語を味わうことができます。
   
 

虔十公園林はこちらからも読めます。
http://why.kenji.ne.jp/douwa/39kenjuu.html

   
   
 
  2006小さな杉暦より
   
   
 
 
 

 

●<いしだ・のりか>フリーランスキュレ−タ−
1965年京都生まれ、金沢にて小学2年時まで杉の校舎で杉の机と椅子に触れる。
「人と自然とものづくり」をキーワードに「手仕事」を執筆や展覧会企画などで紹介。
近著「藍から青へ 自然の産物と手工芸」建築資料出版社
草虫暦 http://xusamusi.blog121.fc2.com/

   

   
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