連載
 

スギダラな一生/第91笑 「ねづくりや」

文/ 若杉浩一

   
 
 
 

大学教員職を始めて4年目になる。まさか、自分が大学で教えるなんて、想像だにしていなかった。始まりは、6年前、武蔵美の大学教授の井口先生から誘いを受けたことから始まる。その時、僕は、直ぐにお断りした。なぜなら、自分が教員職に一番向いてないと思ったからだ。いつも自分を曝け出して生きて来た。スタッフにも、仕事相手にも、嘘をつきたくないと思っていたし、デザインに対しても、厳しさを求める態度を、崩さないでやって来たからだ。つまり、自分も傷つきながらも、本音で対話するという生き方をして来たから、学生がこの激しい挑み方に耐えられるはずが無いと思っていた。おまけに、我が母校のデザインに対する現状を見て、アカデミズムのデザインと実社会のデザインの程遠さに、落胆していた。つまりデザイン教育という分野に失望していたからだ。一方で、企業でデザインをし、スギダラで様々な地域と接し、社会を創るのは、「結局、人なのだ、だから情感溢れる人の育成が必要なのだ」という事を、本当に切実に感じていた。つまり、デザイン論や、方法論というスキルを教える教育と、未来を創造する事、人材育成、新しい価値を生み出すデザイン態度、表現する人々の育成、というデザインのあり方の根本的な違いを感じていたのだ。
だから、自分が新しい、見えない、言葉にできない何かを追い求める事は辞められないが、本に載っていること、海外の先進事例を紹介する事を解説するなんて、自分がやるとは、とても思えなかったし、興味が無かった。つまり、今のデザイン教育に期待を持てなかったのだ。
しかし、その後も井口先生が誘に来てくれて

「若杉くん、今度ね、新しい学部を創るのだよ。」
「今までのデザインが社会から誤解されてきた、社会とデザインの関わりや広がり、それを創 っていく学部をつくるんだよ。新しい学びを作るんだよ。」
「え〜〜誰がやるんですか〜?」
「僕がやる。苦労したが、ようやく大学でも承認された。」
「新しいデザインの領域を創っていくんだよ。」
「人は決まっているんですか?」
「これから。だから、どんな形で若杉くんが絡んでくれるか。話し合いたい。」
「時間がなければ、特任とか・・・色々な形で対応できると思う。」
「いや、それよりも、井口先生、この大業に一人で挑むんですか?」

僕は、自分の今までの事、苦労、変わらない社会、企業・・・・とても大変なことだと容易に想像できた。いくら武蔵美でも、いや武蔵美だから、より軋轢があるだろうと思えた。
僕と井口先生の関わりは、僕が社会人になった瞬間から始まる、日本産業デザイン振興会の中でマイナーな企業の、デザイナーとして、いや、荷物運び、展示係、パネル製作、撤収・・・全て一人でこなしていた変な男に注目して、声を掛け、助け、付かず離れず30年間もの時間、僕の生き様を観察してくれた、恩人の戦いである。これは、逃げるわけには、知らぬふりは出来ないと即座に思った。
「井口先生、僕やります。フルでやります。全力でやります。断る訳にはいきません。」
今朝方まで、どうしたものか?と考えあぐねていた自分とは、全く別の答えを出していた。
今後、どうなるかも何も考えずに、即答してしまった。
時間、待遇、内容、一才聞かずに、決めてしまった。
結局、給料についても、知ったのは大学に勤め始めた後であった。
やると決めたら、条件とか一才考えないし、どう攻めるか?立ち振る舞うか?しか考えられない、計算しないのだ、だって、スカクジ引こうが、やると決めたのだ。
外れても、「やっぱり外れか!!」と笑って貰えるネタを肴に、酒を飲む方が楽しい。
結局、自分のやりたい事っていつも後回し、誰かの期待や、頼みに流されて生きる。
争って見たものの、自分より、他人の方が自分を理解しているかもな?って思えば、それが自分の道かも?と勝手に解釈して生きている。
結局、大切な仲間の要請には「はいかイエス」しか無いのである。そう考えると、何をすべきか?なんて考える必要も無く、楽に生きられる。
そんなことで、大学で教鞭を取る事になったものだから、大学の事がさっぱり分からないし、教授らしくする事もできない。シラバスの書き方も解らなければ、授業の進め方も解らない。圧倒的デザインの実績はあるものの、論理立てて説明した事もない。
ただの「デザインのマグマ溜まり」みたいなモノである。
もし自分だったらこんな先生は嫌である、リスクがありすぎる。実態が掴めない。
出版した書籍もなければ、学歴も大卒で、博士の資格もない。肩書きがまるでない。
だから、大学入って、学生の人気は全くなかった。

そんなリスクの塊のゼミに来たのが、今回のお題の主「鶴元」である。
余程の選択眼が鋭いか?ポンコツの、どちらかしか無い。
彼は武蔵美の建築卒業で、この学部の大学院に来たのだった。そして僕のゼミに入ってきた。30人の中で僕のゼミを選んだのは4人。そのうちの一人だ。
彼は、最初から空き家を探していた、そして仲間達とセルフリノベをして住み、そしてまた空き家をリノベしていた。とにかく空き家探しと改修が大好きなのだ。
いつも空き家ばかり探していて、リノベして仲間が活用するという活かし方をひたすらやっていた。そして、それがそのまま研究になっていった。当時、函館西部地区では、北海道教育大のアンナちゃん(大学4年)達が、僕たちが開催したデザインワークショップに参加して、そのまま、空き家だった野口商店を借り受け、改修し住みながら、地域のコミュニティーハブを創っていった。そしてカフェや、こども図書館などを作りながら、地域と学生が連携していく。つまり学びながら住むと言う新しい活動を始めていた。それと全く同じ時期に同じ自分の学生が同じ活動を始めているのが、あまりにも偶然すぎる。
僕は、学生達を集めて情報交換会を開き協力する大人達との交流会を企画した。「日本全国すみ開き倶楽部」の発足である。そして函館チームは3カ所の空き家を改修し学生達が、住みながら地域と交流し地域を起こして行った。この活動は後輩達に引き継がれ、やがて、アンナ達は、起業化し、地域のさまざまな活動を支援し、仕事にしている。新しい仕事を創造したのである。
一方の鶴元くんは、住んでいた根津の空き家が解体され、新しい建物が建つことになり、卒業を前に棲家と未来を無くしてしまった。いやそれと同時に、新しい建物に入居しないかとオーナーのオファーまで受けてしまった。大学卒業で商売の経験もなく、就職も経験なく、地域に愛されていると言うだけで、月々40万の家賃を払って運営できる目処が立たない。

「鶴元、これは無理だ!!やめた方がいい」
「誰か、代わりにやってくれる人はいませんかね?」
「そんなのいるのか?」

それから、何人かに相談したが、さっぱりいい返事は得られなかった。
コロナ禍で人通りの少ない商店街で40万も払う人は、そうそう居ない。
大体、何で、僕はこの卒業生の根拠のない野望に付き合っているのか?分からなくなってきた。万事休す。残っているのは、鶴元の未練だけ、しかも計画もない。

「断れ!!無理だ!!」
「借金か抱えるぞ。」
「どうするんだ!!」
「やややってみたいです。」
「何を?」
「根津で」
「アホか!!」

そんなやりとりを繰り返した。
しかし、よくよく考えてみると、もし自分がやると考えてみると、可能性あるシナリオが書けるのではないか?と思い始めた。
なぜなら、都市や地域に関係なく商店街の衰退はどこにでもある社会問題だからだ。
ただ、鶴元がやるのだから、可能性がさっぱり見えないだけかも知れない。
しかし、未来を支える若者の新しい仕事の創出、豊かな社会の創造を考えると、やるべきなのではないか?と次第に思い始めたのだ。

ただ、先立つものがない。しかも、卒業したての学生にリスクを背負わせる事になる。
早速企画を作り、ビジョンを作り、事業計画を作って、都市テクノの島村社長に相談した。
ところがだ、島村社長は「いいすよ〜やりますか?」と快く引き受けてくれた。その答えが余りにもあっっさりしていたので、僕は身が引き締まった。そして、同時に、鶴元の事が、自分事になった。
都市テクノとは、解体業を中心とした、不動産、測量の会社である。
若い頃、ヤンチャをしまくった社長が、懸命に働いて、今の会社にした。懸命に働き、仕事の意味を知り、仕事やお金の意味を知り、成長させてきた。僕がこの人に会ったのは、仲間の紹介からである。人懐っこい側面、腹を括ってきた男の迫力がある、何にせよ、愛と厳しさがある。一発で好きになった。それから、頼まれもしない設計をやってみたり、飲んだり、語ったり。そして仕事、経済の向こうにある、人が生きていく喜び、希望について語り合った。
そして思ったのだ、解体とは危険で、苦労して建物を壊す、裏方の仕事だが、人が住まなくなった建物や、壊した後の空き地や、何よりも建築残材という再生可能なマテリアルを生み出している。見方を変えると、未来のモノづくりの始まり、いや再生の始まり、循環する社会の始まりの企業ではないか?これから縮退していく社会で最も重要な仕事に関わっている気がしたのである。言わば未来の社会インフラを担っているのである。
従って、増え続ける空き家問題の再生、空き商店街、空き公共施設・・・この領域も都市テクノの戦略領域かも知れないと思っていた。だから、この鶴元くんの話は、僕的には繋がっていたのだ。
また、いろいろな地域を回ってきて、本当に地域にこそデザインが必要だと思ったし、あまねく、「表現する」という行為が、地域社会のエネルギーや魅力を表出するだけでなく、新しい人の繋がりを作る事になるという事に確信があった。だから、合理的、効率的、生産性崇拝を元にした、専門、分業化的学びや社会が起こしてきた社会を変える新しい人材創造のために新しい学びの拠点が必要だし、その拠点こそ、人材流動や交流を起こす、新たな「驛」(驛:人や物や情報が交流し、飲食や楽しみや癒し、滞在を与える場、江戸時代、宿場街がこれに当たり、鉄道が広がる中で現代の駅に変わっていった。)の可能性があるのではないか?という仮説があった。多様な人々の交流は決して合理的なものだけは生まれない、楽しみや遊びや飲食などの人間の営みなしでは、本質的な対話や交流、融合は起こらないのだ。
シルクロードの栄華を誇った拠点も、織田信長が起こした楽市楽座も全て自由な人の交流と人の営みがあったからこそ発展した。しかし現代は、自由な交流と人の営みと、学びや営みを切り離してしまったのだ。企業では、社員の懇親会や、社員旅行がなくなり、大学では、学内で懇親することが排除された。つまり人の自由や楽しみを奪い、生産性や、合理性だけを残した空間ばかり作ってきたのである。社会は人間の本質的行為を奪い、生産するために手段として人を扱ってきたと言っても過言ではない。そして子供達には、中毒性の高い遊び道具を与え、遊びを創り出す創造的機会を剥奪し、子供の遊びさえ、マーケットに変えてしまった。
私たちはどれだけ、貧困な心を作ってきたのだろうか?

だから、根津のこの「場」は、地域の新しい交流と学びの場であってほしいと思った。
一般の教育機関ではなく、生きること、支え会うこと、交流、対話の拠点、商い、飲食、楽しみの場、情報があり、育み、繋ぎ、託す。そんな場にしたかった。
おはよう〜こんにちは〜こんばんは〜おやすみまで人が集う場にしたかった。
地域のコミュニティーセンター、交流センターは「ただの貸し会議室」になり。
図書館、文化センターは飲食や人の営みを拒絶し17:00で終了する。
道の駅は、お土産物販売と観光案内パンフレットばかりで、交流をしない。
つまり社会そのものが「交流の本質」を忘れてしまっているのである。
私たちはどれだけ、貧困な場を作ってきたのだろうか?
僕は、色々な地域を回って、本当の交流や場を沢山教えてもらってきた。そしてその交流のお陰で、沢山の愛すべき人と地域と繋がってきた。その繋がりのためなら、持てるものは、喜んで差し出したいと思う。その繋がりこそ未来の力のような気がするのである。
お金で解決するのではなく、関係力で解決するのである。
お互いの特技や立場、場を差し出し、助け合う、お互い様の関係である。
そんな関係性を、場の概念を超えて、古い商店街の中で行うのである。
それが「ねずくりや」のコンセプトである。
地域の食堂であり、雑貨屋であり、駄菓子屋であり、ライブハウスであり、セミナースタジオであり、工房であり、居酒屋であり、談話場でもある。
しかしメンバーは、どの仕事も経験したこともなければ、参考になる場がある訳でもない。まさしく初めての場づくりである。しかも収益を上げていかなければならない。
「やばい」のである。またこの鶴元が、いい事を言うが、段取りと、計画は苦手な、ポンコツであることが次々と判明し、色々な計画が遅々として進まない事だらけになる。
理想と現実の違いに愕然とする。どんどん理想を下ろし、身の丈にする。すればするほど、やる意味が見えなくなる。次第に表面上の事ばかり取り繕う。
不安が募り時間だけが過ぎていく。だんだんメッキが禿げ関係がギスギスし始める。焦れば焦るほど目の前のことだけを飾ろうとする。毎週の定例が反省ばかりする時間に変わる。
オープン予定日がどんどん後ろに流れていく。それに追い討ちをかけてコロナ禍。年始早々のオープンが遂に3ヶ月もズレてしまった。
それでも何とか開店に漕ぎ着けたのは3月末日。不安を抱いたままのスタートだった。
本当に大丈夫なのか?3ヶ月持つのか?僕は本当に不安だった。
3ヶ月が過ぎても期待通りの収益は上がらない。それは、そうだ、まだまだコロナ禍の不安がある時期のスタートご近所の応援で朝と昼は売り上げがあるものの、夜が厳しい。
お店は夜で利益が上がるので、夜に閑散とするのは致命的だ。
評論や評価などしている場合ではなく、僕も出来るだけ人を連れて、「ねづくりや」に行くように心掛けた。しかしこのままでは、単なる居酒屋である。学びも交流もない。
考えた挙句、僕は、「屋台大学」と「芸能部」の「ねづくりや」開催を申し出た。
月一回、都合つき二回の開催で、学びや、楽しみ、異種の交流を促そうと思った。
丁度「屋台大学」はコロナ禍を理由に元会社から締め出され、開催の目処が立たず、2年間のフリーズ状態。そして芸能部も同様で、塩漬けにされていた。
コロナ禍で起こった状況を、この期に乗じて、より効率化、合理化への道を進めるか、次世代の兆しと読み、新たな関係性構築の時代だと読むかが、大切な分かれ目だったが、残念ながらそうはならなかった。時代を創る側に立つか?時代に乗ろうとするか?その違いは歴然で時代を作ったGAFAはここ20年で世界のリーダになり、経済的発展の事だけを気にしていた我が国は世界の潮流に乗り損ねてしまった。経済構造、社会構造、価値観や意識が激変している今、必要な事は、自らが、新しい時代、価値を自ら、創ろうとするイノベーション力、創造力だと思うのである。
とはいえ、走りながら、考えながら、実験をしながら、悩みながら、休まず動き続け、理不尽や不合理と向き合わなければならない。そして結果や形が見えて初めて理解されるのである。それだけ、苦しく、辛く、面倒で、孤独な道のりなのである。
できあがれば単純なのだが、単純な事で、理屈に合わない事ほど難しい事はない。
だから、楽しいのだ。まだ見ぬ姿を妄想し追い求めている時が一番楽しい、その間の理不尽や苦労や孤独は、出来上がった後の美味しいお酒の「肴」のようなものである。

9月から10月に行った産学プロジェクトは「ねづくりや」を起点として根津観音通り商店街を賑やかすアートイベントを企画した。武蔵美の3年生、若杉ゼミの4年生、大学院生が一丸となって、市民と対話しながらデザインとアートの力で商店街を賑やかした。
そして二日間で6000人の人が商店街を楽しんだ。最初は、否定的な意見もあったものの目の前に現れた光景を見て「20年前の賑わいが戻ってきた」「ありがとう、来年も」と沢山の賛辞を学生達が受けた。おかげで、すっかり「根づくりや」の信頼も上がった。
本当に素晴らしい事だ。「賑わいや、文化は創るものである」僕はそう思っている。
創るのも、「人」であり、消滅させるも「人」である。結局、魅力とは人が生み出すものなのだ。
経済も人口も縮退する社会の中で、右肩上がりの一人勝ちはあり得ない。もっとも高齢化が進み、経済格差を生むのは、どう考えても都市なのだ。その問題を孕んだ土地で、私たちが何を生み出し、楽しみ、喜び、分かち合い、助け合い生きていくのか?そんなテーマがこの活動には潜んでいる。だから、答えのない、自分達の自分ごとを、喜びを形にするしかない。
「根づくりや」の小さい店には、そんな壮大な夢や希望が詰まっている。

楽しみだな〜〜。みんなで一緒に夢を支えましょう。
   
 
   
 
   
 
   
   
   
   
   
 

●<わかすぎ・こういち> デザイナー
武蔵野美術大学 クリエイティブイノベーション学科 教授

日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長 
月刊杉web単行本『スギダラ家奮闘記』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka.htm 
月刊杉web単行本『スギダラな一生』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka2.htm
月刊杉web単行本『スギダラな一生 2』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka3.htm

   
 
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