12年振りの杉特集を振り返って
  茶番劇の幕を閉じ

文 / 石田紀佳

   
 
   
 

 冬至にむかう斜めの日差しが縁側に入りこんでいる。

 ニンジンとタマネギといりこのスープに大根葉の刻んだ浅漬けをいれつつ、ライ麦パンを食べていた手がとまった。ここ一週間以上、外の仕事が続いていたので、家人と久しぶりに、昼餉を食べながら、怠惰ともいえる気楽さにくつろいでいたはずなのに。

 食事が喉にとおらなくなってしまったのは、クララ・ハスキルのシューベルトのせいだった。いま、そのCDをみるとAndante sostenuteとある。無論ピアノソナタである。音痴で食い意地のはったわたしでさえ、ランチのBGMには聞き過ごせないのは、クララ・ハスキルがその生命をかけてシューベルト晩年の曲を解釈して奏でたからなのか。わからないけれど、食事はいったんやめにして、再度一人で聴き入る。このCDをかけた家人を含め、この世でのお別れがいつかはくるであろう人たちとの関係を思い、半端に生きている自分の弱さを恥じる。

 が、ともあれ、気をとりなおして、杉の原稿でも書こうとパソコンを立ち上げた。「12年ぶりのコンフォルトの杉特集によせて、だよね」、とWord書類を開く。しかしまだ月刊杉の頭になれず、クララがその師アルフレッド・コルトーに冷たくされていたエピソードが気になってしょうがない。コルトーはクララのコンサートが評判になっても決して聴きに行くことはなく、傍目にも彼女をかわいがっていないように見えた。ある姉妹弟子がコルトーにそのことを聞くと「クララは孤独なときにいちばんすばらしい演奏をする」と応えたとか。そして、クララが亡くなってからはじめて「あなたは本当にすばらしかった」とラジオで公にした。

 凡人と天才を同じにはできないが、これほどまでの厳しい愛、大きな愛をわたしは経験したことがない。というよりも、これこそが愛なのだろう。たしかに凡人のわたしは人間同士のなかではこのような愛をじっさいには知らない。けれども、人間以外の自然とはどうだろうか?

 たとえば杉。12年まえにわたしは杉に弟子入りしたのかもしれない。杉の記事を書くための取材を通じて、日本にはこれほど杉をつかったもの、お香から材木、景色をつくる杉林まであるのに、何も知らなかったことを知り、ただただ驚くばかりだった。そこで、種子から杉を育てたり、文学に描かれる杉を探したり、杉を伐採して納屋の床につかってみたりした。

 最初のころは、杉がこころを開いてくれているように感じたが、次第に杉は何もいわなくなった。わたしは無邪気だったともいいたいが、しょせん茶番劇だったのだ。ものいわない杉の山は、ほかの天然自然と同じように、ただ杉じたいとして存在して、人がどうかかわろうが、痛くも痒くもなく、植えられ、伐られ、枯れるときには枯れる。

 太平洋側の年末は青空だ。杉の雄花の芽がふくらむころ。春には黄色い花粉が飛び、月刊杉の関係者でなくても、多くの人が杉を浴びる。

   
 
   
 
 

※ピアニスト、クララ・ハスキルはルーマニア生まれのユダヤ人。

   
   
   
   
  ●<いしだ・のりか>  フリーランスキュレーター
   
 
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