特集  とち木支部 ギネス記録への挑戦!!挑戦
  鹿沼との出会い、そして10年間

文 / 杉浦哲馬

   
 

僕が鹿沼で職を得たのは本当に単なる偶然だった。当時デザイン系の専門学校、しかも施工をメインとする学科を選択していたけれど、何か少し自分がやりたいこと違っているなという感じがして、夜間のデザインクラスにも参加していた。卒業も間近になっていたけれど就職活動はもちろん、履歴書すら書いたことない状態で全く先が見えない時に、当時臨時講師をしていたこのコラムの筆者、若杉さんが働き口を紹介してくれた。その働き口が栃木県の鹿沼市。名前は聞いたことあるけれど、今まで一度も訪れたこともなかった。特に他のあてもなかった僕は、面接のための交通費までくれたこの会社と若杉さんに恩義を感じて即入社を決めた。若杉さんからはそこでデザインせよ!と言われるも、いわゆる金属加工工場の開発チーム、薄いブルーの作業着を着て、ほぼ100%が地元出身の少々悪の強い従業員の方々と何とかコミュニケーションをとる日々で、同級生の進んだオサレで都会的なデザイン生活とは随分違ったところに来てしまったなと、しばらくは悶々としていた。茶髪のヤンキー上がりのお兄さんばかりが従業員の外注先や、夜の11時以降しか現れない社長さんに会うために、夜の東北道を飛ばしたり。実に興味深い経験もした。
悶々としながらも不思議と辞める気が起きなかったのは、一つには辞めたところで他でやる自信もなかったことが一つ。もう一つは都会のオサレなデザイナーや本社で綺麗なカッコして仕事してるやつには負けられんというわずかな反骨心。全く誤った解釈なのですが、当時は結構本気でそう思っていた。でも今振り返ると、当時ネガティブな要素だと思っていたことの多くが、実は今の自分に繋がっていることに気づく。工場での経験や知識があって、一応デザイナー、設計者の端くれとして今まで何とかやってこれた。
東京ではなく、鹿沼にいたからこその出会いや、機会が今の自分の考え方やスタンスに大きな影響を与えている。ジョブスの言う通り、点は先を見て繋げるのではなく、振り返って繋げてみたときにはっきりと線となって見えてくる。後から振り返ると、本当に偶然や、ラッキーとしか言いようがないようなことや出会い、当時は嫌いだったり、苦手だったりした人が実は後から振り返るとすごく大きな意味や分岐点だったりと。 若杉さんの記事を読んで、改めてその点を繋げてみた。 僕の繋げた線や点の多くが、鹿沼で働いていた10年程の間に、濃密に起きていた。 いろんなことに本当に感謝です。

   
   
   
   
  ●<すぎうら・てつま> Uchida MK SDN. BDH.
   
 
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