|
||||||||||||||||
デザインという仕事についた始まりは、段ボール職人として夜討ち朝駆けの段ボール砂漠の一人旅だった。僕は、その無限地獄を抜け出すために、なんとか高速度に仕事を処理する事をいつも考えていた。毎日同じ事の繰り返しの3年の月日の中で、やがて、なんとか自分の時間を少し見いだす事が出来るようになった僕は、開発のメンバーに商品パッケージをやらせてくれと懇願し、ようやくデザインらしきものを手に入れた。そして次の年には、さらに、店頭ディスプレイのデザインを任せてくれるようになった。 当然、段ボールの仕事は今まで通りにあったので、単純に仕事が増えただけだった。しかし、嬉しかった。毎日パッケージサンプルをつくるのがとても楽しかった。 段ボールの仕事に対して、恥ずかしく思った事は無かったが、この時ばかりは、堂々と話せなかった覚えがある。とにかく、くそ真面目に一生懸命、仕事を覚えた。少しずつ早く出来るようになる事と、些細な工夫がそこに生まれる事に喜びを感じていた。様々な道具やテンプレート、治具を作っていった。 しかし、本社では、そんな事より、どこにも行き用がないのに、パッケージデザインなんか、やってどうなるとか、戦略だの、マーケティングだの、小賢しい話になってしまい、自分の仕事を否定されている様な事だらけだった。 僕は、小賢しい振りをすれば、デザインが出来るのならと、言葉を覚え、慣れない分析をし、もっともらしいプレゼンボードを作りながらも、何とか製品デザインに近づけるよう奮闘した。お陰で、ようやく5年目で、文房具のデザインに、こぎ着けた。しかし、2年目で文具事業そのものが撤退、あっという間に職をなくした。今度は、マイナーな印刷器材分野に仕事を求めた。幸い、開発部長に気に入られ、機械本体、カタログ、展示会のデザインまでやらせてもらうことになった。 しかし、それも終わることになる。デザインそのものを首になったからだ。 「若杉君は、ほんと良く怒られるよね〜〜 大人になって、こんな怒られる人は見たことないよね〜〜 あんまりいつもだから、女子の中ではさ〜〜 若杉君を、結構応援してるんだよ〜〜」って言われていた。 仕事は全然楽だったが、生きてる感じが全くしなかった。 そして、また、余計な仕事を勝手に創っては、一生懸命にやり始めた。そして、さらに、余計に怒られた。完全にダメ社員化してしまった。しかし止めなかった。女子達は、「その仕事私たちがやるから。」と、「その余計な仕事」を応援してくれた。そして、2年後、また首になった。 上司から、はなむけの言葉を頂いた。 最後も怒られて、出て行く事になった。そして次の組織へ。ここでも、全くダメだった。エリート集団のかたまりで、コンサルティングやクリエーションという部門だった。知性を語り、人を軽んじている様な目線が肌に合わなかった。仕事は本当に一生懸命にやった。2倍も3倍も調べて報告書も沢山書いた。 それがあだになった。些細な、問題をあぶり出しては、どうやって効率的に、合理的に、やるべきかを高らかに叫び、下請けに丸投げし、出来るだけ仕事をしないで、自分を高く売るという「仕事をしない、仕事した素振り」が出来なかった。自分がダメになるような気がして、体が言う事を聞かなかった。 「若杉、そんな感じで、仕事に拘っちゃだめだよ〜〜相手もサラリーマンなんだからさ〜、重くなるじゃん〜〜もっとドライにさ〜。そんな生き方、流行ないよ〜、人から使われるだけだよ〜〜」 「賢くならなきゃ〜〜 社会じゃ生きていけないよ〜」 その言葉を最後にまた、首になった。何をやっても、全力疾走のこの体質。仕事を愛してしまうこと。変える事の出来ない生き方の性で15年も足下が定まらなかった。家に帰っても、家族がいても、全然、心は満たされなかった。むしろ、情けなかった、理解してくれる人は会社には存在しなかった。 しかし、凄く嬉しかった、狂ったようにデザインをした。何種類もスケッチを描き、模型を作り、うんざりされる位の資料を作った。頼まれもしない、デザインを沢山提案した。当然、却下され、相手にはされなかった。しかし、そんなことは、どうでも良かった。ただ、デザインしている事が嬉しかった。体の疲れそのものが心地よかった。仕事、デザインというものが、どんなに大切か、自分は何で生きているのか、何に依って生かされているのか、「わずかな一筋の確信」を持てた気がした。 上手いか下手か、自信があるか無いか、格好が良いか悪いか、なんかどうでも良かった。やっている事そのものに喜びがあった。そして感謝した。だから、仕事の文句なんか、まるでない。少しの仕事でも感謝した。そして、少しづつ、こっそり、デザインを頼んでくれるメンバーが現れ始めた。無記名でも、時間外でも、何でも良かった。デザインの本を貪り読み、イベントには必ず出かけた。自分の中で、いつもデザインの妄想をしていた。街中がデザインのネタに見え始めた。いつもにやにや、していた。まさしく、変態である。デザインの話しをするのが大好きになった。すげ〜〜人に会うのが、話しを聞くのが大好きになった。 そして、南雲さんと出会った。もうかれこれ15年くらいになるのか?これも、師匠、鈴木恵三親分のお陰だった。そして、2002年、スギダラ倶楽部に繋がる。(正式には2004年だが、ノリで始めていた。) 不毛の、ダメ社員レッテルを貼られ、何者にもなれない30代を経て、40にして、ようやくデザインらしきものに近づけた感じがした。デザインに恋いこがれ、デザインに捧げたが、結局、始まるのに20年もかかってしまった。全く、アホは壁にばかりぶつかり、壁を避ける方法を知らない。 スギダラを始めて、全国を回り、様々な人に巡り会い、語り、供に時間を過ごし、感じた事、それは、 自分を受け入れてくれる人がいた事。 心が、体が許さなかった事、それは、この事だったのだと気がついた。それを感じる体や、感謝する体になるまでの、長い時間だった。「一筋の確信」が実態になり、体に染み渡った。心が穏やかになった。 会社という社会の始まりは、家族だった。供に未来のために一生懸命働き、汗を流し、苦難を乗り越え、創って来たものだった。頼まれもせず、自ら動き、支えあい、「0」から「1」を創った。「1」は未来への一歩だった。しかし「1」が「100」になるにつれ、一生懸命をやめた。勝手に、数字が増えるように思えたからだ。やがて、苦難や壁を避け、楽を選んだ。 楽は、喜びを失い、大切な何かを消滅させようとした。自分勝手になった。そして他人のせいにする事を覚えた。幼稚な、大人が出来上がった。スギダラで会った、田舎のおばちゃんや、おじちゃんは、学は無くとも、みんな、ちゃんとした大人だった。大企業なんか勤めていないのに、沢山の社会を知っていた。 その、おばちゃんや、おじちゃんから沢山教えてもらった。 「一生懸命、働いて。一生懸命生きて。未来へ渡す。」 ただそれだけだが、本当に大切な事だと思えるようになった。 そんな事を考えているとき、西粟倉村の大島君(木工房ようび代表)が素晴らしい文を書いてくれた。心に刺さった、そして、その事を感じる、大島君が眩しく思えた。その文の掲載を大島君にお願いしたら、喜んで許可してくれたので、皆さんへ。 |
||||||||||||||||
祖父が亡くなった。83歳だった |
||||||||||||||||
壁にぶつかっている、仲間へ。 |
||||||||||||||||
●<わかすぎ・こういち> インハウス・プロダクトデザイナー 株式会社内田洋行 所属。 2012年7月より、内田洋行の関連デザイン会社であるパワープレイス株式会社 シニアデザインマネージャー。 企業の枠やジャンルの枠にこだわらない活動を行う。 日本全国スギダラケ倶楽部 本部デザイン部長 月刊杉web単行本『スギダラ家奮闘記』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka.htm 月刊杉web単行本『スギダラな一生』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka2.htm 月刊杉web単行本『スギダラな一生 2』:http://www.m-sugi.com/books/books_waka3.htm |
||||||||||||||||
Copyright(C)
2005 GEKKAN SUGI all rights reserved |
|||