連載
  スギダラのほとり(隔月連載)/第7回 「日向市の人びと」
文/写真 小野寺 康
   
 
 
 

 前回、人を焦点に切り替えてみたものの、書いてみるとこれじゃ「ほとり」じゃなくてど真ん中だよなー、という思いが自分の中に残った。あまりストレートに書きすぎると書かれた方も照れるよね――ああ、だから「ほとり」にしなきゃならないんだ、と思った次第である。
でもだからといって、「ほとり」らしくなぞ依然としてどう書いていいかわからない。
しかも今回は月刊杉101号である。なにやらめでたい気分もあるではないか。
そう思って思い浮かんだのは日向市の人たちの顔だ。
おめでたい人たち? 何をおっしゃるか、全然違います。
日向市の人たちは、南国特有の明るさはあることはあるが、抜けるように朗らかで能天気ということはない。むしろ真逆である。
ひたすら控えめで穏やかな人たちが多い。
宮崎県が続いてしまうが、この際それはさておきということで話を続けると、先日内藤廣さんの展覧会が東京・六本木のギャラリー間(通称「ギャラマ」)で開催された。
日向市から、和田康之さんと大崎雅彦さんが、当たり前のような顔で訪れてこられた。
東京で、仕事とは関係なく(全然なくもないか)彼らの顔を見るのは新鮮だが、これは勝手な私だけの思い込みかもしれないけど、彼らがいるだけで何となく場の雰囲気が変わるのである。
展覧会は、内藤廣さんのトークライブの日程を迎えていた。もちろんそれに合わせて彼らは来たのであるが、和田さんから後日いただいたメールをそのまま借用すると、そのトークは、
「まるで神のお告げのようで、説法を聞いているようで、あの空間で聞けたことは、また格別でした」
ということなのであった。
私もたしかにそんな気分で聞いていたのだが、むしろじっと聞き入るお二人の横顔を見ていて、誠実さに裏打ちされた強固な意思の権化のような、内藤廣さんと日向市は出会うべくして出会ったのだなあと、妙に一人で納得してしまった。

日向市駅を中心とするプロジェクトは、この月刊杉で何度も取り上げられ、「新・日向市駅」なる大書まであるから、今さら語るべきことはないかもしれない。
でも私としては、このプロジェクトは全く終わっていないという、そのことを書くだけでも意味があると思って、後日談的なことを少し書き連ねようと思う。

   
  草むしりする子供たち
   
 

 一般的に都市整備事業というのは、計画段階で整備メニューが決まり、それを設計・施工して現場に具現化することで一旦完了する。
むろん整備事業には、まちの活性化という目的があるわけで、完成後は管理運営担当に引き継がれて維持されていくことになる。
しかし、日向市の場合は少し事情が違うかもしれない。
日向市において私が関与した事業担当は建設部建設課(その後、市街地整備開発課、市街地整備課と名称はいろいろ変わった)で、要するに現場でモノを「造る」人々である。
だが、この事業をそもそも立ち上げた黒木正一課長(のちに部長、いまは商工会在籍)は、最初からこの事業は「造る」ことが目標ではなく、あくまでも疲弊した中心市街地にふたたび活力を与えることなのだといい続けていた。
その「黒木スクール」は、いまだに日向市のスタッフの中で少なからず連綿としている。
だからこそ和田さんをはじめとする歴代担当者は、この月刊杉でも紹介された「移動式夢空間」という子供たちとのワークショップを積極的に仕掛けたり、整備後も駅前広場で毎週(本当に毎週である)イベントを仕掛け運営したりすることに携わり続けている。
本来それは、トンカチを担当する部署の役割ではないのだが。
こんなことがあった。
芝生広場をもつ「ひむかの杜」は、計画段階から使ってくれる市民を巻き込んでワークショップを重ねてきたが、広場に面する保育所(商工会の建物の1階にある)の保母さんたちもそのメンバーだった。
噴水があったらいい、手押しポンプがあると楽しい、という意見はそのまま広場整備に反映された。だから、計画段階から「広場ができたら子供たちを毎日遊ばせられる」と楽しみにしてくれていた。
実際、整備後、子供たちが芝生やせせらぎで遊んだり、お弁当を食べたりしている風景は何度も見た。
だが、あるとき現場に行くと、保母さんと子供たちが一緒になって、遊んでいるというより、なにやらせっせと芝生にひっついてうごめていたことがあった。見れば、草むしりをしているのである。
保母たさんたちが、遊びとして子供たちに雑草取りを体験させているようなのだ。
東京だったら、子供を搾取しているとか何とかうるさいかもしれないが、日向の子供たちは何をしていても楽しそうである。
それがきっかけがどうか知らないが、子供が草むしりをしていて大人たちがやらないわけにいかない、という声が上がったということで、とある週末にイベントとして草むしり大会(まちなか清掃プロジェクト)が開かれた。イベント担当は、いつもの市街地整備課の面々なのだが、例によって休日返上である。
ただし、参加者が草むしりをしてくれている間、彼らは手伝わない。その代わりに噴水そばの石畳の上で何やら妙なものを竹でこしらえ始めるのだった。
草むしりが終わるころ、子供たちが集められる。
「流しそうめん、行きまーす」
ということで、複数の竹筒を流れ落ちるそうめんを、子供たちは嬌声を上げながら掬い上げて食べるのだった。大人も食べる。みんなで食べるのだ。
草むしりも楽しみのイベントにしてしまうのが日向らしい。くどいようだが、彼らは「造る」担当であり、これは本来の業務ではない。

   
 
  まちなか清掃プロジェクト(2009年5月)
   
 
  まちなか清掃プロジェクトでの流しそうめん
   
   
  街角広場の仕掛け
   
 

 一方で本来の業務でも、市民参加という観点が徹底している。
日向市駅の周辺は、区画整理事業が掛けられて街区の抜本的な再編が図られた。
県道をはさんだ角地にも、小さな広場用地が市有地として確保されていた。だがその広場の設計を、日向市はなかなか発注しないでいた。タイミングを待っていたのだ。
やがて新たな街区に再配分された各オーナーは、それぞれ住宅や店舗を建て始めた。
日向市は、その街角広場に隣接する住民が建築設計を始めたのを見計らって、広場設計を発注したのである。その設計に際し、隣接敷地のオーナーだけでなく周辺住民や建築士の面々なども呼ばれて、ワークショップ形式で意見を集めてデザインに反映させようというのだ。
いちいち住民を巻き込み、まちづくりに参加する機会を作ろうとするのが日向市流である。そして、そのワークショップを担当したのが、冒頭に登場してくれた大崎さんだった。
その広場は、北面を市道、東面を県道に接し、南側は時計屋さん、西側は宝石屋さんが並ぶ。
ワークショップで議論すると、時計屋さんは、広場に接して住宅を接するのでプライバシーから視界を閉じてほしいという。宝石屋さんは逆で、広場に面して構えを取りたいからオープンにしてほしいということだった。
その条件を受けてスケッチと模型で3案をつくり、議論で1案に絞り込んでさらに案を煮詰めていった。
中間の段階で宝石屋をやる西村さんから、このデザインは気に入らないという意見が出された。
「これじゃ、俺んちが“裏”みたいだ」
たしかに街角へ向けて正面性を確保したために、西村さんの側が背面的な様相になっていた。実にもっともな話である。
その意見を受け取って再考し、デザインはさらに進化した。
4回目のワークショップでほぼ案が整った。最終案は、舗装面と芝生面を曲線でつないで柔らかさを出し、階段を組み込んで西村さんの敷地と空間的につないだ。
「これならいい」
そういって笑ってくれた。さらに彼は、自分の建物をセットバックした部分を広場と同じ素材の煉瓦で敷きたいと言ってきた。無論自分の敷地の分は自費で賄う。日向市は、公園整備と併せて同じ施工業者にその舗装もやってもらう段取りをつけて、西村さんの施工費を安く抑えてあげたようだ。
完成後、「上町まちなか公園」と名付けられたその公園に行くと、今度は西村さんが公園の芝生の上でせっせと草むしりをしていた。
「いやー、なんだか俺んちの庭が広がったようだからね」
といって喜んでいるのである。じっさい、西村さんの敷地と公園を分けるものは細いスリット側溝しかないから、公園全部、彼の庭に見えなくもない。
東京だと、一民間人に利益を供与しているとかなんとかオンブズマンが騒ぎ出すかもしれない。むろん、ここではだれも気にしない。そもそも公開でワークショップを経て事業化したものなのだ。地域の声を拾って公共事業を創り上げるという姿勢に、問題があるはずがない。
だが行政マンならわかるだろう。こういう官民共同は、簡単にやろうと思ってもなかなかできるものではないのだ。無数のワークショップをこなしてきた日向市だからこそ楽々とできるのである。
この広場(公園)は、その後市の伝統行事である「十五夜祭り」のメイン会場として定着したようだ。

   
 
  11街区街角広場(上町まちなか公園)の検討ワークショップ
   
 
  完成した11街区街角広場(上町まちなか公園)全景。正面左の建物が時計屋さん、右が宝石屋さん
   
 
  完成した11街区街角広場(上町まちなか公園)。西側の宝石店から見た景色。もはや「裏」には見えない。
   
 
  上町まちなか公園と一体に整備された西側の隣地外構。同じ煉瓦が敷き詰められた
   
 
  十五夜祭りの舞台となった上町まちなか公園
   
 
  十五夜祭りの舞台となった上町まちなか公園(夕景)
   
   
  悔いを残さない仕事
   
 

 もう一つ。
日向市駅町地区の最後の仕上げは、ロータリーから直線で市街へ伸びる駅前通りだ。延長は約60m程度と、さほど長いものではないが、中心市街地とのエントランスとして重要であるのはいうまでもない。南雲さんも、この区間だけは照明柱を2灯型にして正面性を飾った。
問題は、照明や信号機の配置であった。
施工が始まった段階で、建柱を予定していた箇所に下水のカルバート(大型のコンクリート角形暗渠)が埋設されていたことが判明した。担当者は驚きを隠せない。
現場で立ち会い、照明柱と信号機の位置を、ああでもないこうでもないと議論し、結果として交差点から少し引いた位置に信号共架柱(車道灯と信号機の共架柱)を立て込むことにした。
だが、担当者がその結果を上司である松田洋玄課長に報告すると、承認されなかった。課長は、埋設函渠を移設して設計通りの位置に柱類を建てよ、というのである。
これには我々も驚いた。
どこの地方自治体であっても、100人いれば99人まではこんな巨大な埋設函渠は動かさずに建柱位置を妥協せよという判断をするだろう。
移設せよというのは異例中の異例である。確かに建柱位置は妙に歩道の内部に入り込んで中途半端な位置になるものの、それでも信号が使えないということはない。
なぜ移設せよというのか。
課長が言うのはこうだ。
――自分は若いころ、仕方がないと妥協した現場があり、その時は納得しても、実はいまだにそのことが心残りで忘れることがない。ましてやこの現場は、多くの担当者が努力を重ねて、全国にも類を見ない完成度の空間に結実しつつある。その現場で、ただ一つの心残りをつくってしまっては、今の担当者は一生心にそのことを抱えて生きていかなければならない。
「自分には、それはさせられません。」
というのである。
課長として責任を負うつもりの覚悟であった。
そんな行政マンが全国でどれほどいるというのか。

   
 
  整備前の日向市駅前
   
 
  整備された日向市駅前広場
   
 

 日向市駅前のまちづくりはほぼ予定通りの個所を整備し終え、完了した。
めでたいことに昨年、日向市庁舎建て替えのプロポーザルが行われ、隈研吾氏ら錚々たる応募者をおさえて、内藤廣さんが特定された。
しかも担当は和田さんだという。
日向のまちづくりはつづく。
いや、すでに新たな第2ステージに入ったかもしれない。

   
   
   
   
  ●<おのでら・やすし> 都市設計家
小野寺康都市設計事務所 代表 http://www.onodera.co.jp/
月刊杉web単行本『油津(あぶらつ)木橋記』 http://www.m-sugi.com/books/books_ono.htm
   
 
Copyright(C) 2005 GEKKAN SUGI all rights reserved