連載

 
『東京の杉を考える』/第1話
文/  萩原 修
あの9坪ハウスの住人がスギダラ東京支部長に。東京から発する杉ものがたり。半年の連載スタートです。
 

 

 


失った杉の柱

 スギダラの会員は、実は東京の人が多いらしい。それなのに、東京での活動は少ない。というかほとんどない。みんな、なぜか九州とか東北に行ってしまう。それも寂しいから、そろそろ東京でも活動しないのかなあと思っていたら、その気持ちを察したように、若杉さんから東京支部長に任命された。それが昨年2005年の末。忘年会の席。酔っぱらった勢いで、何も考えずに引き受けた。引き受けたのは、いいけど、これからどうやって活動していこうかと考えていたら、これまた見すかされたように南雲さんから原稿の依頼がある。それがこの原稿。こうやって書きながら活動のてがかりをさぐっていきたい。1回だとつまらないので、連載にしてもらうことにした。連載してみて、反応があれば具体的な東京での活動にうつりたいと考えている。何の反応もないようだと、このままダラダラと連載を続けて、お茶の濁すことになるかもしれない。

 1回目の今回は、自分との杉との接点について考えてみたい。正直、杉に関して専門家でもないし、杉に関わる仕事をしているわけではない。それに、杉に対してすごく強い思いいれがあったり、杉がとくに好きだというわけではない。単純に南雲さんや若杉さんたちの活動を見ていて、杉周辺の可能性にひかれているのだろうか。というか、なぜか自分でも何かやってみたいという思いにかられている。でも、その糸口はまだ見えてこない。ぼくが生まれたのは、戦後もだいぶ経っての1961年。戦後に杉がたくさん植林された東京の山は、遠足で何度も見かけたはずだ。小学性の頃は、杉が植林されたものという意識すらなくて、ただ、自然にそういう山だと思っていた。そして、その木が何に使われているのかすらわからなかったし、興味もなかった。

 1952年。ぼくのその後の人生の大きな転機となる事件がおきる。増沢洵さんという建築家の自邸が完成する。『最小限住居』と呼ばれた3間×3間の正方形の平面の家。1階9坪、2階が6坪。あわせて15坪の小さな家。戦後の物資が乏しい時に立てられたローコストで最小限の住居。戦後の住宅建築の歴史に残る名作と言われている。1999年、この軸組を展覧会で再現。そして、その後に自邸としてリメークした家に住むことになる。通称『9坪ハウス』。実は、この軸組を再現した展覧会は、日本人とすまいというシリーズで「柱」をテーマにしていた。「柱」である。なんとも不思議なことをテーマにしたなあと我ながら思う。この時、「柱」について、あれこれ調べ、考え、動いた。

 その中に、今後のスギダラの東京での活動につながるような気がするふたつの出会いがある。ひとつは、「東京の木で家をつくろう」という活動を紹介しつつ、東京産の柱材を出展してもらうために、東京の西のはずれの山の中へ交渉に行ったこと。ここではじめて、小学生の時の遠足で見た杉の意味を知る。もうひとつは、最小限住居の柱が杉の足場丸太だったこと。ホントに足場に使うような丸太だったのかはあやしいけど、とにかく杉の丸太だったことは確かである。実は、再現の時には、時間の都合もあり、柱は、杉から檜に変更された。このことが、今もぼくの気持ちの中にひっかかっている。本当は、杉にこだわるべきだったのではないかと。再現できなかった杉の柱に対する思いと、東京の木への思い。どうやら、このふたつの思いが、柱展から7年たった今、ぼくをスギダラの東京での活動に駆り立てているのかもしれない。(続く)

 



 
 
<はぎわら・しゅう> デザインディレクター
1961年東京生まれ。9坪ハウス/スミレアオイハウス住人。つくし文具店店主。
中央線デザイン倶楽部。カンケイデザイン研究所。リビングデザインセンターOZONE を経て 2004年独立。生活のデザインに関連した書籍、展覧会、商品、店舗などの 企画、プロデュースを手がける。日本全国スギダラケ倶楽部 東京支部長。  
 
 

   
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