かまぼこ板も杉だった!
9月7日
そろそろ連載書かなくちゃならないし、スギスギスギ……なんかないかなぁ、と思ってたらふと目にとまったのが冷蔵庫の一番上の棚で半分残っていたカマボコ。お蕎麦屋さんに行くと「板わさ」なんてお品書きがあるくらいだから、板の存在感は大きいわけで、これはもしや杉なのではないか、と思って調べたら案の定杉板でした!
小学校の図工の時間に「蒲鉾の板持ってくること」なんて言われたこともあったし、私の兄なんかは当時流行っていたフォークギターを親にねだってあっさり拒否された時、部屋で密かにカマボコ板に6本糸を張って、左手でコード練習したりしてましたが(その涙ぐましい姿に母はすぐに折れました)、こんな身近なところにも杉板がいたんですね。
もともと蒲鉾っていうのは、竹や小枝のまわりに魚のすり身をなすりつけて焼いて食べる、竹輪(ちくわ)状のものだったようで、形がガマの穂に似ていたから「蒲穂子」と言ったとか、鉾(ほこ)の形を思わせるから「蒲鉾」になったのだとか、説はいろいろ。
それがなぜ板にすり身を盛り上げるようになったのか。登場したのは室町の頃、というのがわかっているのですが、誰が何をきっかけに考案したのか定かじゃありません。でも私が思うに、その時代は建築的にも丸太づくりの豪快な寝殿造りから、製材した柱や板を使う華奢な書院造りに移行した時期と重なるので、製材技術の発達によって板が手に入りやすくなったことが背景にあるのではないか、と推測されるわけです。
じゃ、なぜ本家本元のガマの穂形の蒲鉾が「竹輪」になって、新しく登場した板付きタイプが「蒲鉾」と呼ばれるようになったのか、と言うと、そこには貧乏侍の悲哀が隠されていました。
蒲鉾(ガマの穂形の)は大昔はとても高級で、ごく限られた階級の人しか食べられなかったのですが、江戸中期以降になると一般に広まって、そのうち金持ちの商人は食べられるが下級武士は食べられない、という逆転現象が見られるようになります。それで「町人の分際で武士の魂である鉾を食べるとは!」と難癖をつける輩に隠れて食べるために、隠語として「竹輪」と呼ぶようになったのだ、という話(*)。後に板付きタイプに「蒲鉾」の名前が残ったのは、新しいものの珍しさから来る特別感や、高級感があったからなのかもしれません。
杉板は蒲鉾の水分を長期間にわたって一定に保つ調湿力と抗菌性が買われ、蒲鉾にとってなくてはならない存在となりました。調理法としてはあぶり焼きが主流で、小田原式の蒸し蒲鉾が登場するのは江戸時代の末になってから。関西では、さらに日持ちを良くするために蒸した後に焼いて仕上げるのがポピュラーです。実は関東と関西では板にも違いがあって、一説によれば関東は杉が、関西はモミの木が多かったらしい。でも今では国産の杉板が使われるのは一握りの高級品だけで、大半は北米産のホワイトファー(モミ)やヘムロック(ツガ)、スプルース、ベイマツなんだそうです。がっかり!
国産材では杉の他にシナやトウヒなどもちょっぴり使われているらしいのですが、国産材に人気がない理由は「供給不安定と品質の不安定が重なり、しかも高価」だからですって。一方、ホワイトファーは「白くて水をよく吸い、くせがない」から使いやすいのだとか。
クセ? 色白がいい? おいおい、国産の杉は蒲鉾板にもなれんと言うのか!! あんな小さな板だというのに建材みたいに「割れ」や「反り」が問題になるって言うんでしょうか。あぁぁ、日本人よ、なんでそう神経質なの? 消費者が気にするからつくり手が敬遠するのか、それであまり使われないから供給が不安定になるのか、供給不安定だから使われないのか、もうニワトリと卵じゃない!
でも、杉ファンの皆様、朗報です。国産杉は別の場所で今も堂々と食文化の一端を守る役目についておりました。よかったよかった。それについては次号で書きたいと思います。
*http://chikuwa.co.jp/fuuun_1.html#04「ヤマサちくわ」を参照
<ながまち・みわこ>ライター
1965年横浜生まれ。ムサ美の造形学部でインテリアデザインを専攻。雑誌編集者を経て97年にライターとして独立。建築、デザイン、 暮らしの垣根を越えて執筆活動を展開中。特に日本の風土や暮らしが育んだモノやかたちに興味あり。 |